呪!アメリカ政府閉鎖記念〜でも母性ネタは勘弁『エリジウム』(ネタバレあり)

 ニール・ブロムカンプ監督、マット・デイモン主演の『エリジウム』を見てきた。あまり評判がよろしくないので期待していなかったのだが、アメリカ政府が閉鎖された日に見るにはふさわしい映画だった。

 設定は人口爆発で荒れた地球に下層階級が取り残され、スペースコロニーであるエリジウムに上流階級が住んで病気も老いもない理想の暮らしをしているというもので、主人公のマックス(マット・デイモン)は照射線の事故で余命五日を宣告されてエリジウムでの治療を目指し密入国を企てる…というものなのだが、なんてったって敵役が下層階級に医療ケアを受けさせたくないばっかりにクーデターまで企てる超保守派の防衛長官(ジョディ・フォスター)で、あの手この手でオバマケアを妨害するため政府まで閉鎖してしまった共和党そっくりである。寓話というのにはリアルすぎて笑えないレベルだ。

 最後はマックスが死ぬ気で頑張ったおかげで下層階級が市民権(citizenship)を得て医療を受けられるようになるというオチなのだが、西洋政治史上で市民であるかどうかというのが生き延びる上でものすごい意味を持つことであることを考えればまあああいうオチになるほかないと思う(古代ギリシャのポリスで市民権がない人は参政権がないし、『ヴェニスの商人』だとユダヤ人のシャイロックヴェニスに住んでいても市民ではないので権利が制限されてるし、サフラジェットは女性を市民にすべく頑張ったし、アメリカのアフリカ系住民は公民権を得るために運動したし、南アフリカの黒人もアパルトヘイトの時代は市民権がなかった)。医療ケアがないからってエリジウムを破壊して上流階級を全員ブチ殺したって苦しんでる下層階級には別にそんなにいいことはないわけであって(アフリカ大陸でもよくあったことだと思うが、それまでの上流階級を迫害してうまくいった革命とかクーデターってほとんどないでしょ)、南アフリカ人とアメリカ人が現代的な問題意識を持って組んで作ってる映画ならそりゃ最後は「万人に市民権を」という終わり方になる他ないと思う。

 エリジウムのセキュリティがヘボいとか、最後どうしてコードがないのに市民認識が可能になるんだろうとか、ちょっと演出が感情的だとか、細かいところで監督前作の『第9地区』に比べると鮮やかさに欠けると思うのだが、アパルトヘイトという歴史上の出来事を参照している『第9地区』に比べるとこの映画はおそらくかなりオーソドックスなディストピアSFとしてアメリカ合衆国の現状を諷刺するための作品だと思うので、少し時事ネタすぎて冷静な観察に欠けるところが前作ほど細かいところまで描写が行き届いていない原因なのかもしれないと思う。まあ、しかしここまで時事ネタで作るんなら別にそんなに寓話にしなくてもいいような気もするし、同じテーマでマイケル・ムーアが撮ったドキュメンタリー『Sicko』のほうが面白いような気はする。こんだけ金かけたアクション映画よりもアイルランドアメリカ人の陽気なおっさん監督が他人に話を聞いたり病院を訪問するだけの映画のほうがワクワクするっていうのも不思議なもんだがまあそれは映画のマジックということでしょうがない。


 ただ、一番問題だと思ったのはどういうわけだか似た設定で恋愛ものだった『アップサイド・ダウン 重力の恋人』と同じでこの映画もかなり母性オチであるということである。超タカ派のデラコート防衛長官をジョディ・フォスターが演じているのだが、なんかフランス語と英語のバイリンガルという設定ですごい人工的な感じのしゃべり方をする人で(私はけっこう聞き取りにくかったんだけど)、マーガレット・サッチャー(サッチャーもしゃべり方が人工的だよな)とヒラリー・クリントンとティッパー・ゴアとコンドリーザ・ライスをちょっとずつ合体させたみたいなあまり想像したくない感じなんだけど(サラ・ペイリンは入ってないから安心してね)、真っ白なスーツに身を包んだタフな防衛長官である一方で「子供の安全を守るため」の移民排斥を主張する母親でもある。レズビアン(伝統的に、男性的権威を横領する女=悪として描かれることが多い)で民主党を支持しているジョディ・フォスターがこういう男性的権威と攻撃的母性が悪魔合体したような役を演じるっていうことには私は結構ミソジニーを感じたのだが…とくにデラコート長官が移民排斥をやる手段っていうのがレイピストの部下クルーガーと結託するというもので、象徴的な意味でデラコート自身が性暴力の行使者となる一方、最後は自分もクルーガーにぶっ殺されるということでなんか結構このへんの「権力を持ったおとこおんなはレイピストにぶっ殺されました」というジェンダーセクシュアリティ表象はひどいなと思った。もともとは男性用に書いた役をジョディ用にしたらしいので、相当設定に無理があったのかもという気がする。一方でマックスが救おうとする幼なじみのフレイは看護師で白血病の娘マティルダを守ろうとしているという設定で、非常に伝統的ジェンダー観にのっとった、優しくて娘のためなら何でもするが結局は無力な母親(マット・デイモンに巻き込まれるだけで自分からはほとんど何もしない)である。あれ、たぶんジョディ・フォスターがフレイ母娘が閉じ込められているところに血まみれで放り込まれて、フレイが手当しようとする(敵にも慈悲をかける優しい母だというのを示している)のを拒んで死んでいくっていうのは、権威や権力に基づく攻撃的母性は慈愛ある母性の前に敗北するっていう構図なんじゃないかな?で、最後は母の愛に打たれたマックスが身を犠牲にして母娘を救うことでエリジウム格差社会は破られる。キルステン・ダンストが妊娠して格差社会が破れる『アップサイド・ダウン』より一見はるかに複雑に出来ているようだが、母の愛で格差社会はなくせる!(しかもなぜか母親自身はたいして何もしてない)っていうことで、実はこの話のラストはかなり悪質な母性オチなんじゃないかっていう気がする。なんでそんなに母性愛で格差社会の壁を打ち破りたがるんだ。

 かなり疑問符がつきまくった女性陣に比べると男性陣は大変好演だった。南アフリカ英語でおいしいセリフを持って行きまくるクルーガー役のシャールト・コプリーは怪演だったし、マックスのワルだが誠実な親友フリオ役のディエゴ・ルナがすごくキュートだったのに途中で死んでしまったのは残念すぎる(しかしマックスはフリオを死なせるわフレイ母娘を巻き込むわ、友人にとってはかなり疫病神みたいなヤツである)。あとヤクザとハッカー集団の中間みたいな組織を率いているスパイダーを演じるヴァグネル・モーラが結構良くて、なんというかアノニマスとかが活躍している現代ではああいう悪党なんだか義賊なんだかわからない人たちというのは意外なリアリティがあるし、いい役者を使えば面白く見せられるもんなんだなと思って見ていた。

 ちなみに、エリジウムへの希求といえばベートーヴェンの『第九』で、前作が『第9地区』だったくらいだから当然それへの言及があるだろうと思って見てたらなくてびっくりした。ピアノコンチェルトはちょっとだけ使われてたみたいなんだけど。