愛より自分が大事〜『わたしはロランス』

 グザヴィエ・ドラン監督、メルヴィル・プポー主演の『わたしはロランス』を見てきた。久しぶりにすごいヘヴィなフランスの恋愛映画で、ストーリーや演技はとても良かったと思うのだが、半端にヌーヴェルヴァーグキューブリックみたいな撮り方と音楽の使い方にはちょっとあまり好きになれないところも…とにかく作家性が強くて好みが分かれそうな映画である。

 ストーリーは、モントリオールに住んでいる教師のロランスがある日、恋人のフレッド(名前が男性っぽいが女性)に自分は本当は女性になりたいのだと打ち明けるところから始まる。ロランスを愛するフレッドは戸惑ったり怒ったりしながらもロランスの決断を支援しようとするのだが、結局二人はくっついたり離れたりの腐れ縁に…という話。こう書くと泥沼の恋愛を描いた非常につらい映画のようだが、後味はそんなに悪くない。

 この映画の面白いところは、ロランスとフレッドは愛し合っていてしかもどちらも別に悪いことをしているわけではないのだが自尊心というか自分の自律を保つためには別れざるを得なかった、というところだと思う。連れ合いが男から女になった、というのはなんだか突拍子もない話のようだが、世の中にはパートナーの暮らしぶりが変わったせいで(転職で遠くに引っ越すことになった、とか病気で入院した、とか)どちらもとくに悪いことをしたわけではないのに仲が悪くなって別れざるを得なくなった、という話はごまんとある。どちらかというとこの映画は性別変更をあまり極端に劇的な事例として描きたいとは思っておらず、性別とか性的指向を問わず、恋愛関係にある大人同士が直面しがちな危機のひとつとして誰でも身近に感じられそうなものとして描こうとしている、という印象を受けた。

 しかしながらこの映画に出てくるロランスとフレッドはどちらもかなりクセのある人物で、友達づきあいするのは非常に大変そうな人々である。かなり突拍子もないことを考えつくハイテンションなフレッドのほうが、性格的には「よくいるbitchyなインテリ」っぽいロランスよりも変人かもしれない。しかしながらこの二人は自分の変人的な自尊心とか自律を保つことが愛のためにそれを犠牲にするより大事だと思い、最後は自分の道を選ぶ。この最後の別れの場面で枯れ葉が舞うシークエンスの奇妙なさわやかさは実に鮮やかで、二人の決断が正しいのだということを映像でよく語っていて素晴らしいと思った。二人を演じるメルヴィル・プポースザンヌ・クレマンも、下手すればただのヤな奴らになりそうなカップルを非常に深みのある人間として表現としてよかった。

 ただ、撮り方については(これは完全に好みの問題だと思うのだが)私はちょっと気障だなぁ…と思うところが多かった。まずやたらカメラが揺れるのがよくないと思った。最初っから結構手持ちで撮っていて、とくにロランスとフレッドが言い争ったりするところではほとんど必ずといっていいほどカメラが揺れるのだが、まあもともと私が手持ち撮影が嫌いだっていうのもあるし、あとあんだけずっと揺らしているとメリハリがなくなると思う。激しく揺らすのは後半でロランスとフレッドが対決するあたりだけにしたほうが劇的でよかったんじゃないだろうか。それからカット割りとかカメラワーク、また音の使い方とかが半端にヌーヴェルヴァーグっぽいのもなんかちょっとカッコつけてる感じがしてしまった。とくにクラシックの使い方がゴダールルイ・マルにそっくりで、最後のほうでエリック・サティがかかって男二人の会話が柵の間みたいなところから映し出される場面は「え、『鬼火』なの?」と思ってなんか不吉な印象を受けたんだけど別にそういうラストではなくてちょっと肩すかしを食らった気がした。で、家に帰ってインタビューとかを読んでみたらグザヴィエ・ドランは「ヌーヴェル・ヴァーグともよく比較されるけれど、じつはそれほど彼らの作品を観ていない」そうで、たぶんこの「半端なヌーヴェルヴァーグ感」はそこまでハマってるつもりがないけど実は結構ヌーヴェルヴァーグの影響を受けているところから来るのではないかと思ってしまった。そういえば途中でアンナ・カリーナに対する言及があったが、こういうスタイルの映画ならいっそ『女は女である』とかあの頃のゴダール映画をもっと臆面もなく真似てしまってもいいのでは…と思ったんだけどどうだろう。それから、これはヌーヴェルヴァーグじゃないんだけど、イル・オー・ノワールに住んでるカップルがファニーとアレクサンドルなのはなんで?