オゾン流芸術受容論を現実の政治とリンクさせる〜フランソワ・オゾン監督『危険なプロット』(ネタバレあり)

 フランソワ・オゾン監督の新作『危険なプロット』を見てきた。

 お話の舞台はフランスのリセ。退屈気味のフランス語教師ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)は作文の才能がある貧しい家庭の生徒クロード(エルンスト・ウンハウワー)に個人指導をすることにする。クロードは友人ラファエルの家庭のことをいろいろと非常に辛辣な調子で書いて持ってくるのだが、だんだんその内容が危険な感じになっていって…という話。

 設定はオゾンの初期作『ホームドラマ』によく似ていて、オゾンのたいていの作品にあるミドルクラス的なるもの(ミドルクラスそのものというよりはミドルクラス的な見栄と保守性というべきか)への強烈な反感が前面に出ている作品である。『ホームドラマ』はパゾリーニの『テオレマ』の強い影響下にあると言われているが、この作品ではどんどん危険な話を書いていくクロードにジェルマンが「パゾリーニのつもりか?」と聞くなどという自己言及的ネタまである。それでまあ私はこのオゾンの反ミドルクラス志向と辛辣な諷刺のセンスは何があっても全面的に支持するので(?!)、すごく面白かった…んだけれども、今回の話は『ホームドラマ』に比べるとかなり現実の政治・社会状況に密着した話で、わりあい時事ネタをとりあげた話なのにこういうふうにミステリアスでセクシーな映画にしているというところにはいつもに増して感心した。全体的にはオゾン独特の芸術受容論みたいなのを、権力をモチーフに現実の政治とリンクさせるっていう話なのかなぁと思う。

 まず、映画がいきなりリセの新学期の会議で始まり、そこで「いろんなバックグラウンドの生徒がいるから平等主義に基づいて制服を導入しましょう」とかいう効果がはなはだあやしい「教育改革」的な何かが称揚される、という掴みが実に政治的だと思う。フランスでスカーフ禁止とか公教育の場における服装の同化主義が実施されていること、また世界的にいろいろ格差の問題がとりあげられていることを考えると、こういう制服の導入というのは生徒ひとりひとりのバックグラウンドを理解して細やかな指導をするのではなく、単に差異を目に見えなくするだけで問題解決と見なす非常に安易な態度を象徴するものと言っていいと思う。さらにその後、いろいろな民族の生徒が同じような制服を来た姿が素早い編集でめまぐるしく映し出されるというオープニングは、この映画がかなり現実の政治に寄り添ったものであることを暗示している。で、フランス語教師のジェルマンはこの教育改革ごっこにうんざりして個性的な作文を書くクロードを贔屓にするわけだが、このクロードは父子家庭で父親は身体障害を持っているということで、まあ言ってみれば福祉に頼って生きる層の出身、教育を受けるなどのチャンスを与えられることがなければアンダークラスでひたすら貧しい暮らしを続けるしかない少年である。クロードは友人のラファエルの家で勉強を教えたりするのだが、「ラファエルは僕が住んでいる地区なんかには絶対来ない」とジェルマンに言っていて、安定したミドルクラスであるラファエルと貧しい自分の間には非常に差異があることをよく理解している(制服によって経済的差異が見た目からはよくわからないようになっているぶん、見えない心理的な差が深く観客の印象に突き刺さるようになっている)。年よりもずいぶん知恵があるクロードはやたらにラファの母を「ミドルクラスの女」というのだが、クロードはミドルクラスの破壊者としてラファの家に入り込もうとし、その醜い姿を暴き立て、それを題材に小説を書く…のだが、一見ズタボロにされたかのように見えるラファ一家は結局、最後にミドルクラスのしぶとい鈍感さを発揮して中国で再出発を決めるという結末になる。ミドルクラスはいくら内情がボロボロだろうと自分を温存するほうに向かうので、なかなかミドルクラスの価値観を崩壊させるのは難しい…ということなのかもしれない。

 逆に完全に崩壊するのは、最初は読み手として権力を持ち、傍観者を決め込んでいたジェルマンとその妻ジャンヌである。ジェルマンはエセ教育改革に懐疑的だったりするくらいでどこかにミドルクラス的なものへの反抗心を持っている…のだが、おそらくはその半端な反抗心が災いして道を踏み外し、クロードとラファのカンニングに手を貸すという取り返しのつかない行為に手を染めてしまう。ここから読み取れるのは、読み手が批評者としての権力を保ち、作者と冷静に戦うためにはフィクションの世界に没入してはならない、というフランソワ・オゾンなりの芸術受容論なんではないかと思う。芸術の魅惑は非常に深いものだが、良き読み手であるにはその魅惑に乗せられず、自分自身で作品の内容を判断する力を持たねばならない。諷刺(常に冷静な社会の読み手たることが要求される)を愛する映画作家であるオゾンとしては、やはりジェルマンのような態度というのは完全に失敗した読み手ということになるんだろうと思う。読み手が行使できるはずの神聖な権力を自ら捨てたジェルマンは教え諭す者、冷静な判断力を備えた教員としての権力をも失う他なく、失墜する。一方で、一貫しているようで矛盾もしているのがジャンヌである。ジャンヌはエログロ絵画とかを展示するギャラリーをやっている…わりには最初からクロードの作文には倫理的問題がある、と厳しいことを言っていて、絵画は完全にフィクションとして現実と切り分けているのに小説についてはどうやらそうではない。そのわりに画廊にラファの両親を呼んだり、だんだんクロードの才能にのせられていってしまう。最後はジャンヌもジェルマンもすっかりクロードのペースにはまってしまい、この二人がつくっていた異性愛的なミドルクラス空間も崩壊する。ラファの一家よりも一見開放的そうだったジャンヌとジェルマンの家庭のほうが結局はボロボロに崩壊させられるという点でオゾンは実に容赦ないなと思った。

 しかしながらたぶんこのオゾンワールドではミドルクラスとかもう排撃の対象でしかないわけであって、ジェルマンが停職になって教える者の座から引き落とされたのはたぶんしあわせな結末なんだろうと思う。最後、ジェルマンとクロードが再開してカラフルなアパートを眺める場面はそんなに後味が悪くない。

 最後ひとつ気になったのは、字幕で「レズビアン」を「レズ」って書いているところ。字数カットが必要だからって、いくらなんでもオゾンの映画でこの字幕はちょっとねぇ…

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