吉屋信子の従軍記とその周りの議論に注目〜久米依子『「少女小説」の生成: ジェンダー・ポリティクスの世紀』(青弓社、2013)

 久米依子『「少女小説」の生成: ジェンダー・ポリティクスの世紀』(青弓社、2013)を読んだ。

 近代日本における男性の少女幻想、もう少し国家・社会的なスケールにおけるジェンダー規範、女性が主体的に関わる娯楽といういろいろな側面が複雑怪奇に絡んだ「少女小説」を歴史を追って見ていくものである。きいたこともないような作家の作品などが出てきて単純によく知らない人には新知識ばかりで面白い、というのもあるし、また女性の文芸活動がどういうわけだか規範的なジェンダー観に回収されていってしまう様子を明らかにしているという点で非常に読んでいて歯がゆい気持ちになる本でもある。

 しかしながら私が一番この「女性の文芸活動が規範に回収されていく様子」としてつらく思ったのは吉屋信子の従軍記周りの分析であり、全体の中ではそんなに分量が多いわけでもないこの箇所が一番強烈でその他のところはあまり印象に残らなかったかも…孫引きで恐縮だが、この箇所は後々のためにメモっておきたいのでちょっと長く引用してみようと思う(横書きなんで送り字の表示がおかしいかも)。

 こゝの南京の金陵大学には、いまだに沢山のうら若い支那の娘が立籠もり、避難し、アメリカの女の先生の保護を受けて、アメリカの旗の下に集まつてゐるといふ―私は、その人たちに、一日も早く日の丸の旗を信じて、その旗の下にこそ避難されよと、告げたかつた。
 上海から、この南京の戦跡の街を見に来て、しみ〲思ふは、敗戦国の女性ほど気の毒な惨目なものはないといふ感じだつた―もしこの位置を、彼女たちと我らと取替へて考へて見たら、ぞつとする。
 だが仕合せにも、皇軍の武士達の情のもとに、彼女たちは、そこから救はれる路はあるのだ―たゞ、その路よりも、アメリカの旗のもとに、英国の旗のもとに、彼女がゆくのも、それは自然で仕方ないが―どうか、将来、私たち日本の女性は、その異国の旗のもとから、完全に彼女たちの心を、日本の旗のもとに、集める信頼を、心より心へ伝へ得る路を開きたいと、切に―切に―思ふ
(本書p. 275。もとの文章は吉屋信子「忘れ得ぬカステラ」、「海軍従軍日記」、『主婦之友』22.11、1938/11かららしい)。

 
 これについて久米は「南京陥落時の日本軍の暴虐行為―特に女性たちへの暴行を、ある程度知っていたため」(p. 275)こんな「反転を繰り返すような...ねじれた」(p. 276)文章になったのだろうと分析しているが、非常にもっともである。明らかに著者の吉屋は南京陥落時の性暴力について聞いていると思うのだが、情報統制で書けないという理由でこんなに異常に歯切れが悪くなってしまったのだろうと思う。久米が指摘しているように、南京の女性たちに対して「気の毒」しか言えない書き方には「戦勝側に立つ者のおごり」(p. 276)も見受けられる。とくに最後の段落はあまりにもおためごかしというか、どう考えてもできっこないしひょっとしたら著者本人(女性視点の従軍記を書くということで女性の連帯を夢見て出かけた吉屋)も信じていないのかもしれないことを報道統制のせいで筆を曲げて書いている感があるという点で、実に悲惨な文章だ。しかしながら文筆家というのはどんなかたい読み物を書いている人でも(小説家だけじゃなく研究者もそうだと思うが)人気商売なところがあり、人気のために筆を曲げてこういうような政府などに阿ることを書いてしまうというのは大いにありうる。いくら弾圧があってもこういう安き道に流れたくはないものだ、ものを書く者は常に批判精神を心に入れておかねばならない、と思った。このあたりの分析はわりと気合いが入っており、先行研究まとめなども充実している。

 と、いうことで、従軍記分析のインパクトが強くて他の部分がちょっとかすんでしまったのだが、いくつか疑問点もあった。まず最初に「『少女小説』というジャンルは、欧米諸国には見られない、近代日本の独特な文化であるようだ」(p. 18)とあるが、chick litサブジャンルとしてteen chick litとかtween chick litとかがあって(teen chick litだと映画化された『ジョージアの青春日記』とかだと思うのだが)、これちょっと違うにせよかなり「少女小説」に近いんじゃないかと思うんだけど…あと、最後のライトノベルのところは大変に駆け足なので本当に必要だったのかという疑問もある。これだけでもう一冊ぶんくらい書けるんじゃないのか。