同僚のおばちゃんをいじめることはなぜナチスに加担することと共通点があるのか〜『ハンナ・アーレント』

 シネマカリテでようやく『ハンナ・アーレント』を見てきた。最初のうちは大混雑だったそうだが今はそうでもなくゆっくり楽しむことができたのだが、とにかくむちゃくちゃ良い映画である。哲学論争なんてなかなか映画化しにくい題材だと思うが、演出も演技も映像もよくできていて、先週見た『ゼロ・グラビティ』なんかより十倍はフェミニスト的でかつ面白い。

 ストーリーのほうは哲学者アーレントアメリカに渡り、『イェルサレムアイヒマン』を書いた時期に焦点をあてたもの。アーレントナチスに加担した師ハイデッガーや抑留の暗い記憶に悩まされつつもこの有名な著作を仕上げ、これによってユダヤ人コミュニティをも含むいろいろな人々からいじめや中傷を受けるのに果敢に応戦する、というものである。今からすると『イェルサレムアイヒマン』における「悪の凡庸さ」(ホロコーストみたいな悪辣な迫害や殺戮というのはモンスターとかソシオパスみたいな特別に悪い人間じゃなく、あまり深く考えずに現状を受け入れ他人の言うことに従ってしまうようなふつうの人によって行われてしまう、という議論)は既に哲学だけじゃなく心理学や歴史学でも裏付けとなるような議論がたくさんされているのでこんなに批判を受けたというのがよくつかめないところがあるのだが、この当時アーレントナチスの犯罪人であるアイヒマンを「極悪人」として描かず、また同じような文脈でやはり現状を受け入れて保身のため初期段階で迫害に加担してしまったユダヤ人コミュニティのリーダーたちを批判したことで、ナチス寄りだ、というような根拠のない激しい中傷を受けたそうで、この映画を見ているとそのあたりが非常にわかりやすく、かつえぐい形で描かれている。

 しかしながらこの話、ナチスとか哲学とか人類に対する罪とかものすごく大きな話をしているようでいて、実は頭がよく冷静な女性が何かについて筋の通った独創的な分析をするとそれが気に入らない男どもが上から目線だと文句をつけていじめてくる、という家庭でも職場でもネットでも毎日のように起こっているありふれた現象を大変リアルに描いた映画なので、見ていて他人事とは思えないような親近感が湧いてしまう。さすがにイスラエルが脅迫をしてきたりはしないだろうが、まともな意見を言ったのにえらそうなオッサンにバカにされた、という経験がある女性はたくさんいるのではないかと思うし、女性じゃなくて民族的マイノリティだとか障害があるとかいうような人でも似たようなことはあるんじゃないかと思う(なんか最近こういうのが炎上気味なのを見かけたけどこれだってまあアーレントに比べるとずいぶん双方低レベルだがそういう「自分が気に食わない批評をする女を皆でいじめる」っぽいにおいがしない?)。アーレントのところに送られてくる脅迫手紙が「顔が傲慢そうだ」という容姿攻撃になったり、またまた恩師ハイデッガーとの関係を勘ぐられて「男の影響だろ」みたいな方向に行ったりするあたり、この映画はあからさまではないが女性がものを言うとどういう攻撃を受けるか、ということを非常に繊細にいやーな感じで表現していてすごいと思う。

 しかしこの映画は単に言論による炎上・弾圧とそれに耐える気高い女性を描いているだけではなく、アイヒマン論争を通して人間の悪というものをさらに広く、かつ恐ろしい射程でとらえようとしている作品だと思う。というのも、抑圧にも負けずに自由な思考で悪に立ち向かうアーレントの主張がわからず、アイヒマン憎しで感情的な反応をする人々には、実は考えないという点で何かアイヒマン的な悪の凡庸さに近いものがあるのかもしれない、ということが後半部分でかなり示されているからである。アーレントは知識だけではダメで深く考えることが必要であり、考えなくなれば人間はアイヒマンのような悪に陥ってしまう、ホロコーストのような非人間的な悪を生み出さないためには考えることが必須である、というようなことを映画の後半でずっと論じているのだが、アーレントに文句を言ってくる人たちは基本、ステレオタイプ的なものの見方を受け入れてしまってあまり悪について深く考えてないか、あるいはイスラエルの利益とかユダヤ人の同胞をかばいたいというような倫理的に問題ある同志愛によって思考力をくもらされてしまっている。アーレントが論じたいのはそういうステレオタイプや保身にとらわれて深く考えないことがアイヒマンのような悪を生む、ということなのに、アーレントの同僚も含めた批判者たちは全くそれについて深く考えずにステレオタイプ的な善悪論を再生産しないからといってアーレントを中傷するのである。同僚のおばちゃん(アーレント)を皆でいじめて退職を迫る男性の同僚たちを見ていると、全体主義の時代にはこういう人たちがアイヒマンみたいになるのだろうと思ってしまう。同僚のおばちゃんをいじめるのがナチスとは穏やかでない言い回しだが、この映画の後半の描写は、ちょっとした差別心から何も考えずに他人をいじめることと、アイヒマンみたいな人が「皆もやってる」「命令だから」と迫害行為を事務的に処理していくことには実は似ているのではないか、というのを説得力を持って提示していると思った。

 しかしながらこの映画には希望もあり、それはある程度の知的好奇心さえあれば学歴とか問わず深く考えることが可能だ、という可能性が示されていることである。アーレントは最後の講演で「知識だけではなく深く考えることが必要」というような発言をするのだが、学歴が立派な大学の男性知識人たちが全然アーレントの哲学的な思考を理解しないのに、学歴的にはそいつらに及ばない型破りなハンナの夫ハインリヒや親友である女性作家のメアリ・マッカーシー、あと若い学生たちがアーレントの言いたいことを理解する、っていうのは、この台詞の内容をよく示すものだと思う。ただこの映画には、アーレントがニューヨーカーの編集長に「ギリシャ語とか使うと読者わかりませんよ」と言われて「もっと読者勉強すべきなんじゃない?」と返すところからもわかるように、そもそも学ぶ気持ちがなければ何も始まらないということも示唆している。悪に対抗するには知的向上心と深い思考の両方が必要なのである。

 知的なアーレントを演じるバルバラ・ズコヴァの演技もいいし、イスラエルと北米を対比させた風景映像の使い方なども美しいのだが、ひとつ気になったのはアイヒマンのニュース映像の使い方である。おそらく編集の問題だと思うのだが、モノクロのニュース映像をかなり使っていて、アイヒマン裁判の場面ではアーレントが実際にイェルサレムで生のアイヒマンを見て悪の凡庸さに衝撃を受けている、という臨場感があまりない。だいたいはアーレントが裁判所の記者室みたいなところでテレビ放送を見ているという描写が多く、実際に傍聴席に座るアーレントが写るのは一回くらいだ。このあたりはもうちょっと編集とかでなんとかならなかったものかと思う。やはり、実際に生で裁判を見て悪の凡庸さに打たれた、という表現が重要だと思うので…それから最初の場面でアーレントがやたらにタバコをふかしながらメアリ・マッカーシーの離婚話についてメアリじゃなく夫のほうを少し擁護するところ、あれはアーレントがヘビースモーカーであることで、伝統的にステレオタイプな男性性と見なされるいろいろなもの(論理的な考え方、とか)を賦与されてるっていうことなんじゃないかという気がするのでハルバーシュタムのFemale Masculinityとか使って分析したら面白いのではないかと思うんだけどどうだろう?

 とはいえこの映画はすごくおススメである。哲学に興味がなくても、仕事や家庭でバカにされてつらい思いをしたことがある女性には是非見て欲しい。まあアーレントみたいに高貴に対応するのは無理かもしれんが…アーレントの著作もちゃんと読み直したい。

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ジョアナ ラス
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