意外なほど楽しめなかった〜デイヴィッド・テナント主演『リチャード二世』

 渡英してすぐバービカンでグレゴリー・ドーラン演出、デイヴィッド・テナント主演のRSC『リチャード二世』を見てきた。なんてったってデイヴィッド・テナント!っていうことですっごく苦労してチケットを手に入れて楽しみにしていたのだが、なんか意外なほど楽しめなかった。これを高く評価する人が多いのはわかるし完成度はすごく高いプロダクションで、テナントの演技はさすがだと思うのだが、そもそもコンセプト自体が私には無理だった…

 とりあえず何が気に入らなかったかというと、テナント演じるリチャード二世が髪が長くやさやさとしていてすごくアンロジェナスであるということである。リチャード二世というのは落ちた王であり汚れた英雄であり、まあ失敗した政治家であるわけだが、このリチャードをテナントはある時は手弱女のように髪をなびかせてフェミニンに、別の時はほとんど少年のようないたずらっぽさで演じている。前半のリチャードは非常に人に好かれない感じの男だが、後半はやはり可哀想ではあるしある種の偉大さもある。こういう相反する性質をくるくる変わりながらしかも統一的に演じて見せるテナントの演技力はすごいし、とくに王冠を手放す時の気まぐれさから悲劇に一瞬で変わるような仕草なんかは本当に至芸と言うべきだ。しかしながら、アンドロジェナスなリチャードに実にマッチョなボリングブルック(ナイジェル・リンジィ)を対比するっていう演出方針は、私にははっきり言ってずいぶん古くさいというかステレオタイプ的でタチの悪いジェンダー化に思えたのだが…リチャード二世本人もちょっとフェミニンな人だったという記録があるそうで、この上演も意図的にリチャードをフェミニンな感じにしたらしいのだが、失敗した男性政治家を描く時にその「女性性」を強調するっていうのは別に新しくもなんでもなくてローマの時代からあることで基本的に「女性らしさ」を政治的無能と結びつけるものだと思うし、ずばり女王とその恋人が主人公である『アントニークレオパトラ』なんかは昔はそういう解釈をされていたと思うのである(女性であるクレオパトラと、恋に溺れて男らしくなくなったアントニーが政治を無視する、みたいな)。今『アントニークレオパトラ』をそういう解釈で上演するってことはめったにないと思うのだが、なんで今更『リチャード二世』でそれをやらにゃならんのだ、という気がする(そういう意味では、私が『ダークナイト』を見て「なんで今時ロマン主義的解釈のオセローみたいなのを見せられにゃならんのだ」と思ったのと似てるかも)。まあこの演出ではマッチョなボリングブルックもフェミニンなリチャードも完全に肯定されてるわけではないと思うのだが、それにしたって私は今どき乙女チックで失敗した王様の話なんか見たくねーや、と思ってしまった。

 ただ、私がアンドロジェナスなリチャードに強い抵抗感を抱いたのはうちが東洋人だってこともあるかもしれない。なんというか「両性具有的なるものとしての君主」って、天皇をはじめとして東洋には結構よくあるイメージなんじゃないかと思うのだが、それが完全に失敗した政治家として描かれているということにある意味オリエンタリズムなものを感じてしまったというところがなきにしもあらずである(東洋と暴君というのは古典的な結びつきのあるテーマ系でもあるし)。たぶんこれはうちの深読みで演出しているほうは全然そういうつもりはないと思うのだが、キンキラキンの王座にのってアンドロジェナスな衣装のテナントがあらわれる場面を見ているとなんとなく蜷川なんかのちょっとセルフオリエンタリズム的な演出を思い出してしまい、いい気分で見れなかったというところがある気がする。

 …まあ、そういうことで私は全然楽しめなかったのだが、それでも演出や演技はどこもビシっと決まっていて完成度は高いプロダクションであった。それでも楽しめない、っていうこともあるのだ。

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