どうして『アナと雪の女王』のクリストフには財産がないのか〜女相続人の文芸史(注意:山ほどネタバレあり)

 数日前からツイッターでこんなのが話題になっている。

夏野剛×黒瀬陽平×東浩紀「男たちが語る『アナと雪の女王』——なぜクリストフは業者扱いなのか」

 タイトルが明らかに釣りで、さらに登壇者がこの通りなのでずいぶんと批判が多いのだが、まあこの面子だと過去の文学的・映画的伝統をディズニーがどうふまえてるかとかは全然出てこないかもしれないと思うので(他はよくわからないがとくに三番目の論者は歴史に全然興味がないだろう)、とりあえず「クリストフに財産・身分がない」ことの背景にはどういう文芸の伝統があるのかっていう話を、「女相続人もの」の歴史を使ってちょっと分析していきたい。この「女相続人もの」というのは日本の文芸だとそんなにメジャーな伝統ではないように思うのですんなり理解しにくいところがあると思うのだが、これを知っていたほうがたぶん『アナと雪の女王』のみならずいろんなアメリカのロマンティック・コメディ映画を見る時により楽しめるんじゃないかと思う。


参考1:「理想宮か、公共彫刻か?〜『アナと雪の女王』(ネタバレあり)」(私の『アナと雪の女王』レビュー)
参考2:「王道パターンではない少女マンガの語りを探す」→とりあえず、ここで女相続人の話をちょっとだけしているので参考までに。


 まず長々と女相続人の話をする前に、『アナと雪の女王』におけるクリストフの位置づけを確認しておきたい。クリストフは身分も財産もなく、氷を採取・販売する職人である。王子様でもないし、アナを助けるために何か人間離れした偉業を達成する英雄でもない。ただし頭はいいし、仕事ができ、かつ誠実なワーキングクラスの男性である。アナは最後にDV男の本性を顕したハンスに虐待されるが、自分のことを真に思ってくれているクリストフの真心に報いることを選ぶ。クリストフは身分も財産もないのに、機知と誠実だけで貴婦人の心を得た男、ということになる。このストーリーラインには実は中世くらいまでさかのぼる伝統がある。身分のない男が頭を使って女相続人の愛を手に入れるというのは、「悲惨」とか「業者扱い」どころじゃなく、胸がすくような恋愛喜劇の王道とも言える話の型なのである。伝統的に、貧乏男が結婚により階級上昇するっていう話は、実によくある恋愛喜劇だった。


 身分の低い男が貴婦人に求愛する、というお話は、既にヨーロッパでは中世くらいから流通していたものである。ただ、この頃に人気があったお話の型は、若い騎士が自分よりも身分が高い既婚の貴婦人に愛を捧げるというもので、プラトニックな宮廷風恋愛だったり、またまた『トリスタンとイゾルデ』とかアーサー王ランスロットとグィネヴィアみたいに不倫だったりすることもあり、なかなか現代人にはわかりにくいところもある。中には自分より身分が高い女性と騎士が結婚するとかいうような話あったりするみたいだが、騎士物語では自分よりだいぶ貧しい女性と騎士が結婚する『エレクとエニード』みたいな話はそんなに多くないという話だ(これは学部の時の知識なのでひょっとして新しい研究とかで否定されてたら訂正して下され)。女性が自分より身分の高い男と結婚するという『グリゼルダ』みたいな民話は、たぶん騎士物語とは違う方向性のものから来ているんじゃないかと思う。


 私が専門にしている初期近代くらいになると、おそらくは経済活動が盛んになったり都市文化が活発化したりといういろんな要因で、かなりはっきりと「財産のあるこぎれいな女相続人をめぐって金のない男たちが求愛バトルを繰り広げる」というようなコメディがメジャーな芝居の型として表れてくる。例えばシェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』だが、これはあらすじだけ見るとペトルーキオがじゃじゃ馬キャタリーナを従順な妻に作り替える話、ということで、性差別的だったり暴力的だったりいろいろ問題あるお芝居なのだが、ポイントはキャタリーナが金持ちの娘で、はっきり言ってペトルーキオはキャタリーナの財産を狙っているということである。ペトルーキオは別にそこまで金に困っているわけではないようだが、故郷を離れてイタリアの他の街に出かけたのは'rich enough to be Petruchio's wife'「ペトルーキオの妻になるのに十分なくらい金持ち」の女性を見つけて'wive and thrive'「結婚して栄える」ことを目指してると明言している。またまた別のシェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』では、富裕なペイジ家の令嬢アンをめぐって3人の求婚者がバトルを繰り広げており、結局アンは親を出し抜いて財産のないフェントンと結婚する。一番あからさまなのは『ヴェニスの商人』で、バッサーニオは財産なし、すっからかんの頼りない男だが、自分の美貌と機知だけで起死回生の一発を狙って超リッチな美貌の女相続人ポーシャに求婚し、ライヴァルたちに打ち勝ってポーシャの愛を得、気前のいいポーシャに経済的な窮状を助けてもらう。今見るとペトルーキオもフェントンもバッサーニオ(+それを助けるアントーニオ)もしょうもないやつらみたいに見えるところがあるのだが、おそらく16世紀末〜17世紀初め頃のロンドンでは、こういうふうに金はないけど頭だけはいい男が女相続人のハートをいとめる…というような話は人気があったのではないかと思うのである。なんといっても社会の変動が激しい時期でもあり、没落したり、またまたそこそこいい家でも次男坊や三男坊だったりするとロクに親から金がもらえない。そうなると生き抜くためには女も男も結婚で財産をゲットするほかないわけであり、ちょっとヤバいことをしてでも女相続人をゲットできたペトルーキオやフェントンやバッサーニオはうらやましい、いい男だ、と芝居の観客に思われてもおかしくない。


 17世紀後半になると、フィクションの世界における女相続人をめぐる求婚者バトルはさらに激しくなる。前に「黄金の心を持った不良というストックキャラクターについて」でちょっと触れたが、17世紀後半のイングランドでは、すっからかんの不良男が舞台のキャラクターとして人気があり、こういうワイルドな色男が才覚だけで女相続人の心を奪って安泰に…みたいな話がずいぶん上演されていた。さらにこの頃の人はチャラ男(fopという)キャラも好きだったので、こういうチャラ男が女相続人を下手クソに口説いて笑われたりするような筋も使えるから人気があった。例えばジョージ・エサリッジの『当世伊達男』(The Man of Mode)は、そっこらじゅうに女がいるプレイボーイのドリマントが、財産のない他の愛人たちを捨てて田舎に地所を持っている美貌の女相続人ハリエットの心を掴むまでを描く身も蓋もない話である。ちなみにこのドリマントのモデルは詩人のロチェスター伯ジョン・ウィルモットなのだが、この人は実人生でも女相続人を誘拐して結婚している(ジョニー・デップ主演の伝記映画『リバティーン』を見てね。ちなみに『当世伊達男』はなんと2007年に今をときめくトム・ハーディをドリマント役にナショナル・シアターで上演されてるのだが、ソフト化されてないっぽい)。ちょっと後に書かれたウィリアム・コングリーヴの『世の習い』も、色男のミラベルが、恋人ミラマントと結婚するにあたり、持参金をもらうため涙ぐましい努力をするという話である。この頃の人たちはこういうキャラが大好きだったみたいで、金のない男がリッチな女相続人と結婚するというのは愉快なハッピーエンドとして扱われていた。一方で、こういう色男たちが女相続人と結婚するというのは、過去のワイルドな生活を捨てて家庭に囲い込まれるということをも意味している。ドリマントはハリエットに「田舎の地所に引っ込む」と宣言されるし、ミラベルは前の愛人たちとは手を切ってミラマントと家庭生活を営むつもり満々みたいだ。女相続人と結婚することによって、色男は色気を失うのである。


 この後も女相続人争奪戦を扱う小説やら戯曲やらはたくさん書かれている。ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』なんかにも、主筋ではないがそういう話は出てくるし、19世紀末〜20世紀初頭に活躍したヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』とか『ワシントン・スクエア』なんかは、財産目当ての女相続人争奪戦を非常にいやーな視点から書いた小説である(最近、読み直しているのだが、雰囲気が本当にやなかんじで17世紀の女相続人ものとは大違いだ)。


 ちょっと話がそれるが、ここでもうひとつチェックしておきたいのは、こういう「財産を持ったきれいな女」キャラには、親からの相続によって財産を受け継ぐ女相続人だけじゃなく、夫が亡くなって金持ちになった寡婦も入るっていうことである。むしろ寡婦のほうが、親の命令に従わないといけない若い娘よりも自由がきいて好きな男と結婚できたりもするので、財産のあるこぎれいな寡婦の争奪戦をテーマにした話というのはたくさんあるし、またまた現実にも山ほどあった(現実的な人間の世界では、男はみんな若くてキレイな女がいいと思うわけじゃないし、リアリティ指向のフィクションでも当然そうなる)。フィクションで有名なものとしてはモリエールの喜劇『人間嫌い』で、このヒロインのセリメーヌは若くてすごく美人ということで生娘と思っている人もいるかもしれないが、モテモテの寡婦である。『じゃじゃ馬馴らし』でも小金持ちの寡婦に求愛する男の話が出てくるし、18世紀の小説だがローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』なんかにも、夫が亡くなって店を経営している寡婦に求婚する男の話が出てくる。この「寡婦争奪戦」系統の話の最高峰が、現在放送中の『ダウントン・アビー』である。まだ日本で放送されていないシーズンになるのでネタバレ恐縮だが(知りたくない人は読まないでね!!)、ヒロインであるレディ・メアリ・クロウリーは、結婚前は男にしか財産がわたらない限嗣相続のせいで全然女相続人とかではなかったのだが(母親のコーラはアメリカの女相続人で、そのせいでグランサム卿は没落を避けるためコーラと結婚したが、これは現実にもよくあったらしい)、いとこで相続人のマシューと結婚して男の子を産んだ直後に寡婦になったので、なんとフォーブズの「フィクションに出てくる金持ちトップ15」の14位にランクするレベルの金持ち寡婦になった(推定資産11億ドル、『華麗なるギャツビー』のギャツビーより上)。美人だし頭も良いが性格はいささか悪いメアリがあそこまでモテモテなのは、財産と身分と寡婦の自由があるからに違いないのである。さらにこの話には他にもいろいろ寡婦争奪戦があり、すっかり年取ってるメアリの祖母マーサ・レヴィンソンやメアリの義母イザベル・クロウリーにまで求婚者が群がっている。実に現実的な話だ。


 ちょっと話がそれたが、こういう「女相続人ラブゲット大作戦」ものはアメリカ映画の発展に伴ってかなり大衆文化に根付いたものになる。もともとアメリカン・ドリームには「資産のない若者が才覚だけで大成功」っていう型があるのだが、この「才覚だけで大成功」は別にビジネスじゃなくても、愛でもいいわけである(愛が男の一大ビジネスでないなんて、誰が言った?)。さらにこういうストーリーだと、頭がよくてカッコいい女相続人をヒロインに据えることができ、とくに1930年代のスクリューボール・コメディ(ヘンな男女が丁々発止すごい勢いでやりあう恋愛喜劇)なんかにはうってつけの素材になる。典型例が『赤ちゃん教育』(1938)で、これは素っ頓狂でリッチな上流階級の令嬢スーザン(キャサリン・ヘップバーン)が、ボンクラなメガネの古生物学者デイヴィッド(ケイリー・グラント)に惚れてしまい、着てるものを隠すなど極悪非道の仕打ちで気を惹こうとするが(?)なんかしらんけどマゾ?なデイヴィッドもスーザンに惚れてしまって女相続人ゲット、となる作品である(←意味がわからないと思うが、面白いよ)。もっとはっきりしてるのが『或る夜の出来事』(1935)で、これは富豪令嬢エリー(クローデット・コルベール)がしょうもないプレイボーイのウェストリイと恋愛し、家族の反対を押し切って彼氏のところに逃げようとするのだが、途中で取材目当ての新聞記者ピーター(クラーク・ゲーブル)と行動をともにすることになり、結局エリーはピーターに心を移してしまって…という話である。


 で、ここまでくるともう『アナと雪の女王』のクリストフの役柄はどう見ても見覚えのあるキャラ、お馴染みのロマンティック・コメディのヒーローになっていると思う。ハンス王子は女相続人アナを狙っているダメ男、一方でもともとアナに求婚する気がなかったクリストフが、艱難をともにしてやりあったせいでだんだんアナと愛し合うように…という基本的なあらすじは『或る夜の出来事』にそっくりである。実は『或る夜の出来事』では行き違いでピーターとエリーが別れてしまい、最後にウェストリィと結婚しようとしたエリーが土壇場で逃げてピーターのもとへ…というオチがあるのだが、最後の最後に自分を本当に思ってくれている人に気付いたアナの行動はかなりエリーに似ている。一方で少し新しさがあると思うのは、クリストフは女相続人をゲットして「飼い慣らされる」キャラではない、ということである。そりを乗り回して氷を集めるクリストフは見かけよりも結構自由人で、自由さの点では王政復古期のワイルドな色男たちと似ているような気がするが、色事じゃなく危険な仕事に打ち込んでるほうでワイルドだという点では17世紀の先祖たちと少し違っている。さらに、先祖の色男たちと違ってクリストフは結婚により、女相続人の配偶者として家庭に囲い込まれる道を選ばない。王女のお墨付きをもらってそりを乗り回すワイルドな職人になったという点では、どちらかというとエリザベス一世に勅許をもらった海賊とかに近い存在なのかもしれない。そういう点で、『アナと雪の女王』は、女相続人ものの伝統をはっきりと受け継ぎつつ、新しい要素を組み入れている作品だと思うのである。