美化しすぎ、お姫様万歳もの〜『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』

 『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』は、ニコール・キッドマンモナコ公妃になったグレース・ケリーの半生を演じるという伝記ものである。

 これ、前評判がむちゃくちゃ悪いのでどれほどひどいかと思ったら、まあニコール・キッドマンの存在感や、ゴージャスな衣装、キレイな景色もあってヴィジュアル的には一応最後まで見ていられる程度の出来…ではあったと思う。ただ、演出にも脚本にも(とくに脚本に)かなり問題があって、はっきり言ってつまらない。

 内容としては、レーニエ大公と結婚したグレースが、長年の協働者であるヒッチコックの誘いで映画に戻ろうと悩みつつ、結局は危機に陥ったモナコを救うため公妃としての公務を選び、夫を助けてモナコの政情不安解消に尽力するというものである。

 これはあまり史実には基づいておらず、グレース公妃を美化しすぎだという批判が強くあるらしい。これは全くそのとおりで、同じくヒロインとその家族を美化して描いていた歴史もの『ベル』における脚色が、映画全体のコンセプトを通してドラマティックにするという目的に沿っていたのに比べると、この『グレース・オブ・モナコ』の美化っぷりはあまり映画を面白くすることに貢献していないという問題がある。グレース公妃が活躍したおかげでモナコが救われました!みたいなオチになっているのだが、あまりうまくいっていなかったみたいな夫婦仲がいつのまにか改善してたり、政治的危機が一回のチャリティイベントでおしまいになったり、かなりご都合主義的である。

 さらにつまらないのは、一応この話は「グレース・ケリーは女優をやめたが、公妃という大役を完璧に演じるため生涯、女優であり続けた」というコンセプトで作られていると思うんだけれども、どうもこのコンセプトが失敗してて、結局グレースがただ周囲の圧力で映画を捨てて夫への愛に生きる良き妻になりました、プリンセス万歳、みたいに見えるところである。途中でグレースがマリア・カラスと会って、カラスは「オナシスに歌をやめろとか言われたけどとんでもない、私は芸術家。あなただってそうでしょ?」みたいな、非常に気の利いた台詞を言うのだが、この映画におけるグレースの芸術(演技の技)は結局、カラス的な「自律したアーティストが繰り出す皆のための芸術」ではなく、「夫や国のために公妃の役割を完璧に演じること」というところにオチてしまうので、この映画における演技の芸術というのはよく言っても単なる内助の功、悪くすると政治的プロパガンダの術みたいにも見え、言葉を超えて通じるカラスの芸術に比べると非常に卑小に見える。おそらくこういう話をやるためにはコンセプト自体に無理があったのではという気がするので、むしろ美化しないで大公夫妻の夫婦仲とか家庭問題を泥沼のメロドラマっぽく描いたほうが面白かったのではないか、という気すらする。