フォー・シーズンズについて我々が知っている二、三の事柄〜『ジャージー・ボーイズ』

 クリント・イーストウッドの監督作でフォー・シーズンズの伝記映画である『ジャージー・ボーイズ』を見た。原作は舞台でロンドンでもやっていたはずなのだが、未見。

 基本的には1950年代初めから1990年頃まで、ジャージーの田舎町からアメリカを代表するバンドにまで上り詰めたフォー・シーズンズのモメ事(?)を描く作品である。音楽業界のヤバいところ(裏社会とのつながりや不倫・酒まみれの乱脈生活、家庭崩壊など)を淡々と忠実に描いており、とにかくヤバい不良メンバーであるトミーのひどい素行に重点を置いていたり、若き日のジョー・ペシが登場したりするあたり、まるで『グッドフェローズ』みたいだ。

 ただし『グッドフェローズ』や、『グッドフェローズ』と同じ監督で同じ路線の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』に比べると全然熱量が少なく、むしろかなりクールである。これはイーストウッドアメリカ的クールさの権化であるジャズのマニアだということもあるのかもしれないし、そもそもフォー・シーズンズの音楽がAORなのかもしれないと思うのだが、むしろこの映画のクールさに一番貢献しているのはむしろ60年代半ばのゴダールに近いようなちょっと「実験的」な撮り方のほうだろうと思う。『ジャージー・ボーイズ』はアメリカで最も成功したバンドの伝記をアメリカの娯楽映画として撮るというものなのに、技法的にはあまりアメリカらしくなく、登場人物がスクリーンから観客に向かって話しかけてくる技法を多様したり、まるでフランス映画みたいだ。同じモノローグでも『グッドフェローズ』とか『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のほうはボイスオーバーに近い形で、「観客に向かって話しかける」よりはむしろ聞き手を置いていくハイテンションなモノローグだったのだが、『ジャージー・ボーイズ』のほうは、登場人物が「人前では言えないが、こっそり聞き手に伝えたいこと」を挟むことで映画全体の盛り上がりに良い意味で水を差すようなモノローグが多く、そのあたりが非常にクールな印象を形作っているように思った。ただ、フォー・シーズンズのリードヴォーカルであるフランキー・ヴァリだけはほとんどモノローグがないのだが、これはヴァリがバンドの「声」だからだろうと思う。リードヴォーカルというのはある点では歌声でなければ語ることを許されない、別の意味で言うと歌うことで全ての心情を聞き手に伝えられる特権的な位置を有している存在であるわけで、だから散文のモノローグを語ることは許されないんだろうと思う。しかしながら歌で全てを伝えられるはずのフランキーが家族とは完全なコミュニケーション不全に陥っているあたりがかなり皮肉であり、またこの映画の醒めた描き方によく似合っているわけだが。

 しかしながらよく考えて見ると、こういう劇映画にインタビューみたいなものを導入する手法っていうのは別に2014年時点では全然新しいわけではなく、ゴダールが『男性・女性』(1966)や『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1966)なんかで既に60年代半ばにメジャーにした技法であるわけである。そしてこの映画のクライマックスである「君の瞳に恋してる」(1967)のヒットは、ちょうどゴダールがこの手の映画を作っていたのと全く同じ時期であるわけだ。そう考えてみると、別にイーストウッドはものすごく実験的な手法で伝記映画を撮ってるわけじゃなくて、描かれていることが起こった時点の最新技法でこの映画を撮っているということになる。伝記もののアメリカのミュージカル映画にフランス映画ふうの技法という組み合わせ方があまり思いつかないから新しく感じるだけで、作り方としてはすごく歴史をふまえているというか、たぶん必然性がある選択肢なんではないかと思う。