肉感的キャシアスと高潔なブルータス〜彩の国『ジュリアス・シーザー』

 彩の国シェイクスピア・シリーズ『ジュリアス・シーザー』を見てきた。蜷川幸雄演出で、ブルータス役は阿部寛アントニー役が藤原竜也、キャシアス役が吉田鋼太郎ということで大変な豪華キャストである。

 セットは舞台の手前から奥側までかなり大きな階段を設置するというもので、また『タイタス・アンドロニカス』の時のメスオオカミの像を流用している(これは私だけじゃなく皆気付いてみたいで、隣に座った人も「あれ見たことある!」と言ってた)。衣装も見た目はけっこうトーガっぽいもので(動きを考えてかなりアレンジしてあると思ったが)、基本的に古代ローマ風の美術を心がけているようだ。

 今回の演出の特徴は、吉田鋼太郎キャシアスはやたらホモエロティックであるのに、阿部寛ブルータスが非常に異性愛的・理想主義的で、ブルータスがいっこうにキャシアスの思いに気付いていないらしいという点が(とくに前半で)強調されているということだと思う。吉田キャシアスはさすがに堂々としており、キャシアスにしてはかなり「肉感的」な存在感のある男性で、役者の体型に合わせて「あの男、もっと太っていればいいのだが」という台詞もカットされている。ふつうキャシアスはやせていて神経質そうな役柄にすることが多いと思うのだが、吉田キャシアスはどちらかというと全身から生身の中年男の生々しい存在感がにおってくるような性格だ。この吉田キャシアスはとにかく男たちに囲まれていることに歓びを感じるタイプみたいで、キャスカに接吻したり、またまた嫌っている相手の藤原竜也アントニーにねっとり血をなすりつけたり、とにかく男同士のボディタッチを好む。で、その吉田キャシアスが一番愛しているのが阿部ブルータスらしいのだが、この阿部ブルータスは非常に異性愛的かつ理想主義的な性格の男性として描かれており、常に哲学とか政治、名誉のことを気にかけているので、家庭で妻のポーシャを愛する以外は非常に性的なことに疎そうな男である。この上演では吉田キャシアスが阿部ブルータスに接近しては生々しいボディタッチがすんでのところで回避される…みたいな演出がかなりあり、吉田キャシアスの一方通行的な想いが出ていると思った。

 阿部ブルータスはあまりにも高潔な性格の男として演じられており、これは実に『ジュリアス・シーザー』としては王道で良かったと思う。別にブルータスは高潔一辺倒の男にしなくてもよいとは思うのだが、阿部寛にとっては、高潔であるにも関わらず時に弱さを垣間見せてしまうローマ男というのは実にはまり役で、水を得た魚のようだったと思う。以前の蜷川『シンベリン』よりもずっと役者の個性にあった役柄・演出で、見ていて非常に説得力がある。

 藤原竜也アントニーは相変わらず体のサイズより一回りくらいオーラがでかくて舞台映えする。私は内心、この芝居ではアントニーが一番いい役だと思っているのだが、とくにアントニーの演説の場面は大変面白かった。藤原アントニーは狡猾だがかなり正直なところがある男として演じられていると思った。今回、正直な藤原アントニーを見て気付いたこととしては、アントニーは追悼演説でウソは一切ついていないということがある。おそらく藤原アントニーはブルータスが高潔であることは本心から認めており、幕切れにブルータスの死に際して言う「ブルータスだけは高潔だった」というのは真実ある言葉である。しかし高潔だと評価しているからといって憎くないとは限らない(イアーゴーだってオセローは高潔だということは高く評価してるけど、だからこそ憎い)。この高評価と憎さがないまぜになった内心をよく表すアントニーの演説を、藤原竜也はけっこう上手にこなしていたと思う。

 見たのは初日だったので、ちょっと乗り切れてなくて台詞になめらかさが欠けるようなところもあったのだが、全体的には落とし方がひどかった前回の『ロミオとジュリエット』よりははるかに面白かったのだが、ただサブサハラを舞台にしたRSC版『ジュリアス・シーザー』とか、ドンマーウェアハウスのオールフィメール版『ジュリアス・シーザー』に比べるとストレートすぎて物足りないかなぁという気はする。