共感覚者として、ものすごくがっかりした〜『驚愕の谷』

 F/Tで、ピーター・ブルック、マリー=エレーヌ・エティエンヌ作・演出『驚愕の谷』を見てきた。一言で言うと、一人の共感覚者としてものすごくがっかりした。いつもはつまらない芝居を見ると激怒して劇場を出てくるのだが、今回は激おこじゃなくてほんとに肩を落としてがっかりしたというか…まあ、私の共感覚はそんなに強いものじゃないし記憶力のほうはからっきしだし、また共感覚者はひとりひとりかなり感じ方が違うので、私のように感じない共感覚者もいるだろうが、少なくとも私は共感覚がある演劇研究者として本当にこの芝居が面白くなかった。

 
 一応、主役級なのはサミー(キャサリン・ハンター)。サミーは驚異的な記憶力を持ち、かつ共感覚者であるのだが、大人になるまでそれが普通でないとは知らなかった。ちょっとしたきっかけで驚異的な記憶力が周りの人に知られるようになり、仕事をクビになったサミーは記憶術者として舞台に出て暮らしていくことにする…のだが、記憶ショーをやるごとに記憶を積み重ねていったサミーは全てのことを覚えたまま何も忘れられないという状態に苦しむようになってしまう。このサミーの話を中心に、他の共感覚者や感覚関連の障害を持つ人などが登場する。キャストは役者三人+音楽家二人で、役者たちがとっかえひっかえいろいろな役を演じる。

 と、いうことなのだが、ちょっと共感覚をかじった人ならこのあらすじからわかるように、サミーのモデルはA・ルリヤの『偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活』に登場するシィーことソロモン・シェレシェフスキーである。この本は古いが、共感覚を扱った一般向けの医学エッセイとして大変読みやすく優れたものだと思うので、とてもオススメである。

 …で、この芝居に対して私が感じたどうしようもないつまらなさの主要因としてまずあげられるのは、たぶん共感覚について正確に知りたいんだったら、この芝居を見るよりも上にあげたルリヤの本か、あるいはリチャード・サイトウィックとデイヴィッド・イーグルマンの『脳のなかの万華鏡---「共感覚」のめくるめく世界』かラマチャンドランの『脳のなかの幽霊、ふたたび』なんかを読んだほうがぜーんぜんいいだろうと思ったということである。これは科学的な意味で共感覚について知るという点でも、また内面的な意味で知るという点でも、ここであげたような本を読んだほうがいい、ということだ。はっきり言って、ほとんどルリヤからとってきたようなエピソードをどういうわけか現代と思われる時代の女性に置き換えて上演するというのは、私(ここでは「私たち」と言ってもいいのかも)にとっては毎日自分がフツーに経験しているようなどーってことないことをやたら「驚愕!(phenomenon)」「驚異!」と大げさにプレゼンされるだけみたいな感じで、何ら新鮮さを感じない。最後のサミーの記憶による苦しみは、ハンターの演技がいいのでいくぶんかは心に迫るが、一方でモデルであるソロモンに若干失礼なんじゃないかという気すらしてしまった…ちょっと説明しにくいのだが、ソロモン固有の苦痛も含めた経験を別の人に置き換えて「こんな現象あるんだよ?面白いでしょ?」みたいな感じで舞台にのっけてる気がして、同じ共感覚者としてはあんまり楽しいと思えなかった、とでも言えばいいのかな…上にあげたような本はけっこう共感覚者それぞれの個人の資質に寄り添いつつ科学的な分析を試みているところがあると思うので比較的読みやすかったのだが、なんていうかこの芝居はそもそも『驚愕の谷』というタイトルであることからもわかるように、「共感覚とか驚異的な記憶力とかびっくりだね!これをみんなに面白く伝えよう!」みたいなノリで作られていて、それ以上の掘り下げがあるわけじゃなく、共感覚者の(≒われわれの)日常を見世物にするだけのもののように見える。


 さらに私ががっかりしたこととしては、この芝居は全然共感覚的じゃないっていうことである。私はいろいろな点で舞台に惹かれているから舞台研究をやってるわけだが、共感覚者としては、舞台芸術というのは最も共感覚的な芸術であると思う。なぜなら舞台芸術というのは、その場に存在しないはずの感覚を仕草や音や色やさまざまな手法で伝えるもの、つまりある感覚から他の感覚を引き起こすことでお客にメッセージを伝える芸術であるからだ。ところが『驚愕の谷』はあまりにもシンプルすぎて、そういう共感覚的な総合芸術としての醍醐味が全くなかった(実は私がポストトークでした質問はそういう舞台の共感覚性についてききたかったのだが、ちょっと質問の仕方が悪かったのかあまりちゃんと答えてもらえなくて残念だった)。共感覚者としては、やっぱりあのイスとか机だけのシンプルなセットとかがよくないんじゃないかと思う…もっと激しい光とか、ごちゃごちゃした家具とかがあるべきだ。我々は共感覚がない人たちよりおそらく少しだけうるさい世界に生きていて、それが普通だと子どもの頃から思っている。この舞台を見ていても、共感覚についてまあいくぶんか知的には理解できるのかもしれないけれども、我々がどういう世界に生きているかとかは全然、わかってもらえないんじゃないかなと思う。私たちが住んでいるのはおそらくもう少しカオスな世界だ。


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