これを見れば戦車と装甲車の区別もつくようになる、リアリズムの戦争映画〜『フューリー』

 デイヴィッド・エアー監督『フューリー』を見てきた。

 これ、なかなかあらすじが解説しづらい作品である。というのも、第二次世界大戦中のドイツで、アメリカの戦車隊がボロボロになりつつドイツと戦っていく…という内容で、ほとんど戦闘してるか、休憩しても急に襲撃されたり死人が出たりしてそれ以外のドラマはほとんどないので、ほんと「戦争がつらい」としか言いようのない話だ。予告編があんまり要を得ないのもしょうがない
 
 とりあえず描写のリアリティが半端ではない。私は戦車と装甲車の区別もつかないレベルで軍事のことがわからないが(そして世の中の9割程度の人間はそうだろうと思うのだが)、この映画ではシャーマン戦車の司令塔にウォーダディことドン(ブラピ)がおり、その下に四人の部下がいてそれでチームを組んでいる。ドイツ軍との戦闘が発生すると、ウォーダディが標的の位置とか特徴とかを瞬時に判断して「あちらにはこれを撃て」などと攻撃する武器(白燐弾とか榴弾とか)を指定し、それをすぐ部下が撃つのだが、この判断と連携が大変よくわかり、へえー戦車というのはこういうふうにチームワークで戦闘するのか…しかし司令塔の業務は思ったよりずいぶん大変なんだな…というようなことが何も知らない人にもよくわかるように描かれており、そこのリアルな描写だけでも見る価値はある。

 登場人物の描き方については、できるだけ戦争を美化せず、人がどんどん死んで若者がボロボロになっていく様子を丹念に描いている。タイピストから無茶ぶりで戦車に配属され、最初は人が殺せず精神的に参っていたが最後は「マシン」と呼ばれるようになるノーマンの描き方はちょっとドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー―資本主義と分裂症』に出てくる戦争機械の話を思わせる。性暴力の描き方とかもあまり女性を性的に描かないように注意しつつ触れていてなかなかうまいと思わせるが(しかしセクハラ野郎のクーンアスはそれでもひどすぎだが)、ノーマンとドイツの村娘が恋仲になるあたりは戦争の場面に比べて明らかに脚本に力が入ってない感じで若干物足りなかった。

 しかし一方で思ったのは、こうしたリアリズム重視の戦争モノっていうのは娯楽として面白くかつ「へえー、こういうふうに戦車を動かしてたんだ」という歴史的啓蒙にも役立ちはするが、結局それだけで終わってしまい、見た目の迫力や若者のつらい体験への同情とかにとらわれて戦争と歴史認識について深く考えるまでにはいたらないんじゃないかということである。これはまさにこの間のコンテンツ文化史学会でやっていたマティアス・ファイファー発表で論じられていたテーマで、リアリズム的戦争映画というのはそのリアリズムがすごい、面白いというだけでそれ以上に至らないという問題がある。この映画はまさに戦車の細部などのリアリズムについてはすごくこだわっているんだけど、「戦争をリアルに描く」以上に独創的な目的がないように見える。別にそれでもいいという人はたくさんいるのだろうが、私はこういうリアリズム偏重の映画はそんなに好きではない…し、戦争について観客を深く考えさせるという点ではむしろリアリズムに頼れなくて、表現主義とかデフォルメの方向性になりやすい演劇のほうに強みがあるんじゃないかっていう気もしている。