グザヴィエ・ドランの魅惑のナルシシズム/ホモフォビア〜『トム・アット・ザ・ファーム』(ネタバレあり)

 グザヴィエ・ドラン監督・主演の『トム・アット・ザ・ファーム』を見てきた。

 主人公はゲイの恋人ギヨームの葬儀に出席するため、ケベックの田舎に一人で出かけたトム(ドラン自身が演じている)。トムはギヨームの兄で農場を管理しているフランシスから、母アガットに対してはギヨームがゲイだったことを隠しておけと脅され、友人のふりをすることになる。亡くなった恋人を忘れられないトムは次第に暴力的なフランシスのペースに取り込まれていくが…というスリラー。

 これ、Liliesを書いたミシェル・マルク・ブシャールの戯曲を映画化したものだそうで、たしかに場面場面の展開は非常に舞台的で、主な会話とかアクションは密室的な空間で展開する。ただ、畑が広がるカナダの大地を主人公のトムが車で走る場面はカナダの広さを感じさせ、舞台となる農場が非常に隔絶された場所であることを印象づける効果をもたらしている。この隔絶感、ド田舎感がすごいので、ケベックの話なのにまるで合衆国の南部ゴシックのように思えるところがある。

 全体的に話はものすごく緊張感があり、かつセクシーである。とくにトムとフランシスが農場でタンゴを踊る場面の色気があまりにもすごくて窒息しそうになった。最後がゴシックからの脱出で、モントリオールの多様な人々が集う夜の風景が心安らぐ解放の風景として写るあたりもとても巧みだ。グザヴィエ・ドランの演技も監督ぶりも申し分ない。

 しかしながらひとつ鼻についたのは、この話はものすごくナルシシズム的だっていうことである。なんてたってトム役のドランが美しいったらありゃしないもんで、殴られたり首をしめられたりするのになんだかキレイである。自分を罰するかのようにフランシスに虐待され、友人のサラをモントリオールから呼んできてギヨームのストレートの恋人のフリをしてもらおうとするトムの心にはかなりのホモフォビアが内面化されていると思うのだが(これは最後に解放の契機があるんだけど)、一方であまりにも虐待されるトムが美しく撮られているので、このホモフォビアナルシシズムがよくわからない融合を起こして得体の知れない倒錯的な魅力を発している。こういう内面化されたホモフォビアとの戦いとナルシシズムは、全く別物のように見えるがゲイのアーティストにおいては共存しうる特徴的な作風だっていうことをできれば主張したいのだが、データがない…のでしないことにする。

 で、この「自分をキレイに撮る」方針があまりにも徹底しているので、いくらイケメンであろうとも常に鈍らぬ鋭い切っ先の機知を持っている私は(どうも私の表現も映画に影響されてナルシシズム的になってきた気がするが)、『Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!』を思い出してしまった。この映画にはものすごいナルシシストで監督・脚本・主演を自分でつとめた自分大好き映画をカンヌに出品して呆れられる映画監督カーソン・クレイ(ウィレム・デフォー)っていうキャラが出てくるのだが、このドランの『トム・アット・ザ・ファーム』は燦めく才知で呆れられることは回避してるけど、なんかこのクレイのナル映画を思い出しちゃうところがあるなぁ…と思って見ていた。この調子で映画を撮り続けるとホントにビーンにバカにされるようなものを撮っちゃうんじゃないかと不安になるのだが、ドランはまだすごく若くて、ナルシシズム的側面を指摘した批評家には「オレのおナルなケツにキスしな」などという発言をしているらしいので、とりあえず不安になる前に笑うことにする。ああ、私もお前のケツにキスするさ。