マークス&スペンサーを着た悪魔と、メイドの攻防〜ロジーナ・ハリソン『おだまり、ローズ−子爵夫人付きメイドの回想』

 ロジーナ・ハリソン『おだまり、ローズ−子爵夫人付きメイドの回想』新井雅代訳(白水社、2014)を読んだ。

おだまり、ローズ: 子爵夫人付きメイドの回想
ジーナ ハリソン
白水社
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 アスター子爵夫人で、UKで初めて庶民院に登院した女性の議員であるナンシー・アスターに35年間仕えたメイド、ロジーナ・ハリソンの回想録である。UK初の女性庶民院議員というのはコンスタンス・マルキエビッチなのだが、この人はシン・フェイン党に所属するアイルランドナショナリストで登院しなかったので、ナンシーは登院した女性議員としては最初ということになる。ナンシーはアメリカ生まれで一度離婚しているのだがその後アスター家の相続人であるウォルドーフ・アスターと結婚し、夫が子爵になり、庶民院議席を放棄することになったのでその地盤を継承して最初の女性議員になった。一方、この本の語り手であるローズことロジーナはヨークシャの労働者階級出身のお付きメイドで、何度か職を変えたのちにアスター家令嬢ウィシーのお付きメイドになったのだが、その後母であるナンシー・アスターに見込まれて専属のメイドになった。ナンシー・アスターは大変気むずかしい女性でメイドが居着かなかったらしいのだがローズは例外的に気に入られてしまい、結局結婚もせずに長年アスターに仕え続けたということだ。

 このナンシー・アスター、さすがにイングランド初の女性庶民院議員として長年議席を維持していただけあってたいへんエネルギッシュな女性で、型破りであり、またこの本にもあるように英国ふうの完璧な淑女とはほど遠い人物である。英国風の完璧な淑女というのは使用人の前ではあまり感情を露わにせず、いつも落ち着いているものだとされるが、ナンシーは気まぐれで感情的で文句ばかり言っている女性で、落ち着きとか抑制といったものとは正反対だ。一方で政治やチャリティなどにはかなりの才能を発揮しており、また常に洗練された服装をしていて社交界では花形である。しかしながら気性が激しく頭の回転が速いことではローズもナンシーに負けないところがあり、この二人は女主人と使用人とは思えないような率直さで互いを罵り合っている。ナンシーがアメリカ育ちで気さくな人間だったからなのかもしれないが、女主人と家事使用人というよりは現代の企業の女性上司と秘書みたいな感じである。ナンシーは政治家だったので秘書は別にいたらしいのだが、第二次世界大戦中にプリマスが空襲を受けていた時期にはほとんどローズがナンシーの個人秘書、アシスタントに近いような仕事をしていたようで、さらにそうした印象が強まる。とはいえナンシーはかなりの鬼上司であり、筋の通らない要求をしてきたり、異常にエネルギッシュな自分と同じレベルの仕事量を当然のようにローズに求めてきたりするあたり、『プラダを着た悪魔』のミランダを思わせるところがある(ナンシー・アスタープラダじゃなく、意外にもマークス&スペンサーとかがお気に入りだったらしいが)。休みをとるとナンシーのスケジュールがむちゃくちゃになってしまうのでローズにはほとんど暇がなく、また昇給もなかったらしい。見かけの労働条件を見るとかなり悪く、ナンシー・アスターはひどい上司だったように見えるのだが、この本からするとローズは非常にプロ意識の強い女性で英国きっての大物である女主人を支えるのを誇りとしており、さらにナンシーは給料はしまりやであるわりに他の点では気前がよくてしょっちゅうローズを自分のおともとして豪華な旅行につれていったり(ローズは無類の旅行好きである)、ローズの家族に贈りものをしたりしていたらしいので、正式な給与以外のメリットが大きかったということなのだろうと思う。また、ナンシー・アスターがあまり淑女らしくなく感情をしょっちゅう露わにしていたということはローズとはかなり気安い関係であったということでもあり、この二人の間には女性同士の非常に親密な結びつきがあったことが見てとれる。使用人と女主人がここまで対等にやりあい、親しく付き合うというのは珍しいことだったのではないかと思う。一番の読みどころはこの気性が激しく頭の良い二人の女性のケンカするほど仲が良い不可思議な信頼関係の面白さである。

 アスター夫妻がどちらも政治家だったせいで、いろいろな政治的事件やスキャンダルの話も盛り込まれている。アスター夫妻が親ナチスだったという噂に関してはローズははっきり否定しているが、その理由はナンシー・アスターはあまりにも気まぐれでかつ率直であり、何でもぺらぺらしゃべってしまうし、すぐ気が変わるし、気にくわないことがあれば公然と所属政党に反旗を翻してさらに悪名も面白がるようなタイプなので、陰で陰謀を企むなどということはできっこないから、ということである。さらにドイツ関係者がパーティに招かれたことはあまりなかったということも書かれている。ナンシー・アスターは宗教的には非常に偏屈で、クリスチャン・サイエンスの信者であり、カトリックユダヤ教徒も大嫌いというしょうもない人だったようで、その点では批判されるべきところがたくさんありそうなのだが、とはいえ陰でドイツと陰謀を企んでいたかというような話になるともう少し検証が必要だと思うので、こういう証言は決め手にはならないものの面白く、史料的価値もあるものだと思う。