まっとうなハムレット〜蜷川幸雄演出、藤原竜也主演『ハムレット』

 彩の国さいたま芸術劇場で、蜷川幸雄演出、藤原竜也主演の『ハムレット』を見てきた。この二人で既に12年くらい前にハムレットをやっており、それは私も観ている。正直言って前の『ハムレット』のほうが良かったような気がする…たしかに藤原竜也は前より堂々としているかもしれないが、今回の『ハムレット』については、なんか良くも悪くもまっとうな普通のハムレットだった印象である。面白いけどそれ以上というわけではない。

 日本の19世紀末くらいの貧乏長屋がセットとして出てきて、「これは日本に初めてシェイクスピアが紹介された頃の街並みで、ここでハムレットの最後の稽古が始まります」というような字幕が前に出ているところから始まるのだが、このセットは前の蜷川版『滝の白糸』にそっくりなセットで、いかにも「前に見た」観があるためあまり独創性は感じなかったし(全体的に「前も見たな、これ」っていう演出や美術が多い)、さらにこの「最後の稽古」という枠がそこまで機能しているようにも思えなかった(役者のほうは全然、「稽古」という設定じゃなく普通にハムレットやってる)。能みたいに亡霊が出てきたり、長屋に明かりがともっては消えたりするところはいいし、フォーティンブラス進軍の場面だけ長屋の後ろがとりはらわれて奥行きが出るのもいいのだが、とはいえやっぱりどこかで見た観がある。長屋のセット、いかにも昔の日本っぽいごちゃまぜな美術、途中で出てくるひな壇なんかも含めて、あまりにも「海外でやる」ことを意識しすぎるような感じである(まあ、これは海外ではウケるだろうな)。

 おそらく、個人的な趣味として私が一番好きじゃなかったのは、ハムレットとガートルードの関係があまりにも近親相姦的であるところである。この手の精神分析っぽい演出はもう古いと思うのだが、12年前のハムレットよりさらに近親相姦的母子関係が強調されている。居室の場でガートルード(鳳蘭)を押さえつけるところなんかほとんど強姦に近いような視覚的効果をあげていて、せっかくの行動的なハムレットがこういう性的・精神分析的なハムレットに還元されていくのはおもしろくないなと思って見ていた。

 あと文句があったのはフォーティンブラスである。フォーティンブラス(内田健司)をああいう現実逃避的な青白く弱々しい存在として提示するのは新演出だからいいとしても、問題はほとんど台詞が聞こえないことだ。立ち位置と発声両方の問題だと思うのだが、後ろのほうの客席だとほとんど何を言っているのかわからない。いくら演出が斬新でも台詞が大事にされていないと元も子もないと思う。

 ただ、つまらないというわけでは全くない。メリハリはあるし台詞は大切にされているし、長さを気にせず最後まで面白く見られる。あと、とりあえずは藤原竜也である。藤原竜也があの体の倍くらいのデカさのオーラを発しながら舞台に進み出て、スポットライトを浴びながら「日本よこれが芝居だ」みたいな調子で独白するとなんだかわからない鳥肌がぞわーっと出るので、あれがやはり花形役者ってもんなんだろうと思う。出てきて話すだけで花がある。