信仰と赦し〜『おみおくりの作法』(ネタバレあり)

 ウベルト・パゾリーニ監督『おみおくりの作法』を見てきた。

 主人公はロンドン市内のケニントンのお役所で、孤独死した人の身寄り調査・葬儀を担当する部署につとめているジョン・メイ(エディ・マーサン)。1人で22年間も身寄りのない死者を弔う仕事をしてきたが、ある日経費削減のため上司に突然クビを言い渡される。最後の仕事であるビリー・ストークの身寄りを探すため、ふたんはほとんどしないような大規模な調査旅行に出かけたジョンは様々な土地を尋ね、ビリーの生き別れた娘ケリー(『ダウントン・アビー』のアンナことジョアンヌ・フロガット)を探すためコーンウォールのトゥルーローまで出かけて行くが、だんだんケリーに好意を抱くようになる。ところが…

 思ったよりはユーモアが少なく、また最後すごく悲劇的・宗教的な終わり方をするのでちょっと驚いたが、全体的には地味だけどとてもよくできた映画だと思った。孤独で勤勉なジョンを演じるエディ・マーサンの演技は大変すばらしいし、フロガットもテレビドラマの時とはひと味違っていて良い。

 基本的にこの映画は信仰についての映画であると思った。UKの映画って(とくにアイルランドに比べると)世俗的なものが多いと思うのだが、『おみおくりの作法』は広い意味での信仰、霊性の重要性を論じるような映画である。ジョンをクビにするネオリベ野郎みたいないかにもイヤなヤツの上司は、葬儀のための調査はコストがかかりすぎると考え、また葬儀というのは生き残った者のためにあるのだから死んだ人しかいない葬儀は無意味であると言って、埋葬マシンみたいにどんどん死者を埋葬して調査を終了する新しい民生係を褒めるのだが、一方でジョンは「宗教が分かればちゃんとした葬儀をすることができるのに…」と反論する。ジョンはどんな宗教の死者でもできるかぎり所属教会をつきとめて葬儀に出席するようにしており(宗派だけじゃなく民族の違いにもとても気をつけて弔問のスピーチや葬儀でかける音楽を選んでいる)、他人の多様な信仰をたいへん尊重する人である。そんなジョン本人が最後は孤独死してしまい、生者は誰も葬儀に来ない。ところが最後、自分が埋葬した孤独死した者たちの霊が墓地に集い、多数葬儀に出席してくれる、という終わり方になる。これは、真の信仰を守る者は孤独であり、一見したところ全く報われないように見えるが、実は最も「幸福」(ふつうの意味での幸福ではなく、霊性とか魂にかかわる意味での「幸福」)な者であるのかもしれない、ということを示しているように思う。その点、自分を犠牲にしてまで仕事をやり終えてひとりで死んでいくジョンは殉教した聖人のように描かれていると言って良いかもしれない。

 しかしながらこの信仰のテーマと密接に絡んでくる赦しのテーマについてはちょっと楽観的すぎる描き方がされているようにも思った。ジョンは死んだ人と絶縁していた身寄りに連絡をし、葬儀に出席してくれるよう頼むということで、ある意味では死者に対する赦しをとりつけるのを仕事とする人である。クビになる前に調査した人の子どもから電話がかかってきて「お父さんを許して葬儀にだけは出てくれないか」と頼んだところ拒絶され(相手が何と言ったのかは分からないがジョンの表情からだいたい推測できる)、「余計なお節介でした」と謝る場面が最初のほうにあるのだが、家族と生き別れた人というのはかなり複雑な家庭の事情で縁切りした場合もあるので顔も見たくないし死んでせいせいしたと思っている…ということもあり得る。しかしながらこの映画冒頭の事例で赦しを得るのに失敗したジョンは、次の事例であるビリー・ストークの葬儀では絶縁していた友人や家族からも赦しをとりつけ、葬儀に出席してもらうという偉業をなしとげる。赦しというのは赦した人と赦された人の魂の両方に救いをもたらす行為であるので、赦しをとりつけたジョンは人々の魂のために素晴らしい行いをした、ということになるのだが、私はこの映画を見ていて、そんなに恨み合っている家族が死んだからといって赦しあえるものなのか、さらに赦す必要があるのだろうか…と思ってしまった。まあ、この映画は信仰についての映画だと思うので、描き方としては非常に一貫しているとは思うのだが。
 
 追記:この映画はベクデル・テストをパスしないと思う。登場人物に女性は出てくるし、話したりもするのだが、短くて会話になっていなかったり、聞こえなかったり、男性のことだったりする。