ニューオーリンズ(2)歴史的建造物でテネシー・ウィリアムズのホテル劇を上演

さて、ニューオーリンズにきた一番のおめあてはテネシー・ウィリアムズ・ニューオーリンズ文学祭であるので、観劇にいそしむことに。まずはホテル劇の上演を見る。
 このホテル劇は、テネシー・ウィリアムズのホテルを舞台にした一幕物四作品(それぞれの上演時間は20分くらい)をまとめて上演するというものだが、ポイントは上演場所。フレンチ・クォーターのハーマン・グリマ・ハウスという歴史的建造物になっているお屋敷を使い、それぞれの芝居を屋敷の別の場所で上演する。観客はいくつかのグループに分けられ、屋敷を移動しながら芝居を見る。上演の合間の空き時間にはお屋敷のガイドさんから家具調度や屋敷の来歴についての案内を聞くことができる。
 ここが最初の集合場所である中庭。『バイロン卿の恋文』(Lord Byron's Love Letter)はここで上演される。

 最初は小さな部屋に入って『最後の金時計』(Last of My Solid Gold Watch)を見た。これは老セールスマンのミスター・チャーリー(ジョージ・サンチェス)と若いセールスマン、ハーパー(ジョエル・ダービー)の会話劇なのだが、過去にしがみついて生きるチャーリーの孤独が浮き彫りにされる作品で、とくにハーパーが出て行った後にひとりでベッドに横になるチャーリーの表情の寂しさには胸に迫るものを感じた。あと、これは私がアメリカ英語をよく理解してなくて誤解したのかもしれないが、ちょっとホモセクシャルコノテーションがあるように思った。

 次は中庭に移動して『バイロン卿の恋文』。

 マルディ・グラを見に中西部からやってきた小うるさくてやたら元気な女性と泥酔したその夫が、バイロンの恋文を持っているという老女の話をきくという作品。恋文を持っている老女は、これは自分の祖母宛だと言うのだが、話をきいているとどうもそれは老女自身の話であるらしいことがわかってくる。哀愁に満ちた話なのだが、老女と一緒にいるもう1人の女性(上の階のテラスにいて降りてこない。この上演では男性が女装して演じている)がいろいろ途中で口をはさんでくるのでちょっと笑えるところもある。最後のほうで老女が、ものすごく強烈で幸せな体験をするとあとの人生はそのおまけみたいなものになってしまう、だから世間から引っ込んで暮らしたんだが、というようなことを言っていて、なかなかつらい話だ。老女は恋文をとても個人的なものだと言って、中西部の夫婦にはかなり遠くから見せるだけなのだが、カーテンコールの時、このだいじなだいじなバイロンの恋文はテラスからぶん投げられて観客に踏まれるという憂き目を見た。お客はもちろん大盛り上がりであった(?)。

 最後は『ひえんそうローションの女性』(The Lady of Larkspur Lotion)と『ミスター・パラダイス』(Mister Paradise)で、この二作品は続けて上演され、作家役は同じ役者(ロバート・ミッチェル)が演じている。『ひえんそうローションの女性』は中庭ではじまり、廊下→部屋と移動するのだが、この移動では役者が観客を先導するようになっており、観客を案内しながら同じテンションで芝居を続ける役者の技術には恐れ入った。話自体は零落した南部美人ハードウィック=ムーア夫人と、彼女を家賃未払いで追いだそうとするタフな大家ワイア夫人の会話劇で、途中で貧乏作家がハードウィック=ムーア夫人を助けに入ってくる。かなり笑劇に近いところがある作品である。その後に続く『ミスター・パラダイス』は、創作をあきらめた作家のところに若い女性ファンがやってきて復帰を促すが、結局作家は拒否するというもので、前作とはうってかわってシリアスで哀愁漂う作品だ。

 最後はカーテンコールならぬコートヤードコールで、音楽と踊りでおしまい。

 全体的に演技の質がとても高く、さらに客席と舞台の区別が無いのでとても親密感があり、観客は人のひみつをのぞき見でもしているような気分になる。また、どの演目もかなりお客を笑わせようとしているのが特徴で、テネシー・ウィリアムズの芝居ってこんなに笑えるのか…と思った。上演場所の選定に助けられているとは思うのだが、素晴らしいプロダクションだと思う。