近代も前近代も、女を救わない〜『パプーシャの黒い瞳』(ネタバレあり)

 岩波ホールポーランドの映画『パプーシャの黒い瞳』を見てきた。

 1910年くらいに生まれ、80年代に亡くなった実在するポーランドのジプシー(ロマ)の女性詩人、パプーシャことブロニスラヴァ・ヴァイスの生涯を描いた伝記映画である。パプーシャはロマの娘としてジプシーキャラバンで旅をして育ったが、あるきっかけで当時のジプシーとしては珍しく文字の読み書きを習うようになる。父親ほども年上のジプシー音楽演奏家ディオニズィと強制結婚させられ、子どもが生まれないため戦災孤児を養子として育てるが、戦後に政治的トラブルでジプシーに匿われるようになった青年詩人イェジに詩才を認められ、一躍ジプシー詩人として名をあげる。ところがイェジがジプシーについての本を出版したことがきっかけになり、ジプシーの秘密を漏らしたとしてパプーシャはジプシー共同体を追放される。正気を失ったパプーシャは詩作をやめ、文字の読み書きなど習わなければ良かったと思いつつ貧困のうちに年老いる。

 全体的に全く救いがなく、激しい抑圧に押しひしがれるヒロインの悲劇的人生をひたすら淡々と描写する作品である。実につらいのは前近代的な社会においても近代的な社会においても、賢い女性には全く生きる道がないということだ。住所がなく、旅を続けるジプシーの社会はこの映画においては近代国家から外れたある意味で前近代的なものを象徴し、一方で定住を強いる社会主義ポーランドは近代国家を象徴すると思うのだが、ジプシー社会は全くユートピア的に美化されておらず、「一件自由な放浪者に見えるジプシーたちは差別の被害者ではあるが、弱者として身を守るためにものすごい閉鎖性を発達させていてその中には厳しい女性差別がある」ということが容赦なく描かれている。パプーシャは親に売られるようにしてろくでもないモラハラ男と強制結婚させられ、子どもが産めないからと言って殴られる。このクズ夫のディオニズィはパプーシャがお金をもうけたり、男としての自分の体面が関わるところではパプーシャを褒めたりかばったりするくせに、そうでない時は全然パプーシャの人格や才能を尊重しない。パプーシャは文字の読み書きを習うことによって自分の詩才を開花させたものの、その才能ゆえに共同体の掟を破ったとしてジプシーコミュニティから村八分にされる。一方で近代国家ポーランドもジプシーたちに定住を強いるだけで全然援助とかはせず、パプーシャの才能をいいように搾取するだけの権威主義的な体制だ。ポーランドの教育ある人々はジプシーの文化をおもしろおかしいものとしてあまり理解せずにそれこそ「消費」しているだけのように見えるし、年老いたパプーシャを小突き回してコンサートに連れて行くあたりも、パプーシャの詩才はポーランドの国策のために利用されただけのように見える。パプーシャの才能を理解しているイェジはディオニズィよりは若干マシな男に見えるものの、後先考えずにパプーシャの詩を売り出すあたり、非常に世間離れした芸術家タイプで、やはりパプーシャを(理想的な詩人としてだけではない)対等な人間として尊重してくれるような男ではないように見える(既婚者だしね)。中盤でパプーシャがこっそり本を読んでいるのを見つけた上流婦人が「聡明な女は生きづらい」とパプーシャに教える場面があるが(ここでベクデル・テストはクリア)、まさにこの映画に出てくる戦前戦後のポーランドにおいては社会のどこに属していようとも教育のある女にとっては生きる場所が無く、貧しいとさらにひどい抑圧を受けることになってしまう。

 こういうわけで、全体的に非常につらい映画だった。『アフガン零年』なんかもそうだが、ヒロインが受けている圧迫が半端ではないので、まるで見ているだけで石でも頭にのっけられているような気分になる。美しいモノクロ映像や効果的に使われている音楽がさらにヒロインの人生の悲劇性を浮き立たせていると思った。ただ、ひとつ思ったのだが、パプーシャは読み書きを習ったことを後悔しているが、もしもう一度人生を生きられるとしたら、パプーシャは文字を習わないことを選んだだろうか?パプーシャが文字を覚えたのは運命とか必然に近いものであって、だからこそこの映画は非常にオーソドックスな意味で悲劇なのではないかという気がする。