パーソナルスペースvsそこに染み通る社会〜グザヴィエ・ドラン『Mommy/マミー』(少しネタバレあり)

 グザヴィエ・ドランの『Mommy/マミー』を見てきた。

 舞台はフランス語圏のカナダ。障害のある子どもの親が窮地に陥った場合、子どもの養育を放棄して施設に預けることができるという架空の法律ができた、という基本設定がある。話は発達障害がある少年スティーヴ(アントワン=オリヴィエ・ピロン)と、スティーヴを溺愛しつつもてあましている母ダイアン(アンヌ・ドルヴァル)の愛憎と、ダイアンの隣人で吃音症になってしまったカイラ(スザンヌ・クレマン)の交友を描く。カイラの助けで落ち着いてきたと思われたスティーヴだったが、安定は長くは続かず…

 作品のきっかけとして、スティーヴが物語の冒頭で入っていた施設に放火し、他の入居者に大火傷をさせたというスティーヴの「原罪」的なものがある。取り返しのつかない暴力を振るって人ひとりの人生をめちゃくしちゃにした少年の物語だという点ではケン・ローチの『天使の分け前』に似ていると思うのだが、ただスティーヴは『天使の分け前』のロビーみたいに被害者と向き合って反省するとかいうことを全くしなくて、そのかわりに多額の補償金を支払えという裁判を突然起こされるという展開になる。『天使の分け前』と同じくスコットランドを舞台にした鬱映画『NEDS』でも暴力を振るった少年が被害者と向き合わされる場面があったのだが、『マミー』はこのあたりが全然違っていて、スティーヴは自分の行った暴力ときちんと向き合うことを全くせず、スティーヴが社会化される瞬間というのはこの映画にほとんどないと言っていいと思う。そのかわりにダイアンはカイラを取り込むことでスティーヴを立ち直らせようとするのだが、この映画ではダイアンとスティーヴの親子は社会と自分たちを有機的に結びつけるということを全くやらず、むしろカイラを自分たちに取り込むこと、隔離コミュニティを作ることで解決策を見つけようとする。ところが終盤に向けて法とか福祉国家といった形ある社会が暴力的に介入してくることで、ダイアン、スティーヴ、カイラによって作られてきた社会的と切り離された共同体が崩壊する。またまた全編がiPhone画面みたいな1:1の窮屈な画面で撮られているため、なんとなく閉鎖感、親密感があって、パーソナルなものへの着目というこの映画のテーマをコンセプト的にも美しく表現していると思う。この社会という開放空間とパーソナルスペースの対立というテーマが私にはとても面白いものに思えたのだが、なんというか描き方が超独特であるのもあってあまり整理しきれていない。最後にスティーヴが施設を脱走し、扉に向けて逃げていくところは社会という開放空間にスティーヴが放たれることを示しているのかもしれないが、先行きは怪しいものがある。この場面全体に漂う不穏さは、ちょっとフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』を思わせるものがある。アントワーヌ・ドワネルものみたいにスティーヴのその後が描かれたりはしないのだろうか…

 ひとつ付け加えておくと、この映画は大変音の使い方が独創的である。オアシスやらダイドーやらの選曲もさることながら、「ふたつの別の曲が一度に流れる」とか「音が漏れてくる」みたいな、それこそパーソナルスペースと社会の齟齬という全体のテーマを鮮やかに浮かび上からせるような音楽の使い方をしていて舌を巻いた。

追記:なお、この映画はベクデル・テストをパスする。ダイが仕事をもらいに行くところで、雇い主とお金の話をする場面。

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