クローゼットの死者〜『追憶と、踊りながら』(ネタバレあり)

 ホン・カウ監督、ベン・ウィショー主演の『追憶と、踊りながら』を見てきた。

 舞台は現代のロンドン。ヒロインであるカンボジア系中国人のジュン(チェン・ペイペイ)は死んだ息子カイ(アンドリュー・レオン)の面影に取り憑かれながら老人ホームで余生をおくっていた。カイのボーイフレンドだったリチャード(ベン・ウィショー)は英語がほとんどわからないジュンを心配し、通訳としてヴァン(ナオミ・クリスティ)を連れて会いに行くが、息子がゲイだったことを知らず、リチャードを嫌っているジュンはなかなか難しい相手で…

 この映画は六カ国語くらい話せるのに英語ができないジュンと、バイリンガルで完全にロンドンになじんでいるゲイの息子カイの文化的な意識の差を主題とする映画なのだが、カイが既に死んでいるというところが問題をより深刻にしている。親と子で言語文化が異なっているせいで摩擦が起こるというテーマじたいは『ビヨンド・サイレンス』に近いと思うのだが、ふたつの文化を持つ存在であったはずの息子が死んでいるせいで、親と子が実際に文化的差異について向き合える契機が無い。白人でいかにもイングランド男という感じのリチャードがジュンに「あなたが同化しないからカイがつらかったんだ。銀行でも何でも、言葉が通じないからカイが面倒を見ないといけなかった」というようなことを言うのだが、これは一見、実に植民地主義的な構図ではある…ものの、リチャードはたとえそれに気付いていてもカイへの愛のために言わないといけなかったのだろうという話の運びになっているあたりがつらい。途中でバイリンガルのとても優秀な中国系英国人女性であるヴァンが「私は母と暮らすなんでまっぴらだ」的なことを言うのだが、この映画は今まで見た中でもかなり深刻な感じで文化摩擦を描いた作品であったように思う。


 カイはフラッシュバックで何度も登場するのだが、この映画における不在の中心である。さらにジュンにカムアウトする直前に死んでしまったということで、カイとリチャードの間の性愛もジュンにとっては不在のものとして描かれる(なんかこうやって書くと『トム・アット・ザ・ファーム』みたいなあらすじに見えるが、全然雰囲気違う)。リチャードをやりきれなくしているのはこの自分たちの間の性愛が不在とされることであり、たまりかねたリチャードが最後に自宅にやってきたジュンに「カイはゲイだった」と打ちあける。「どこの家にも戸棚にガイコツがある」('Every family has a skeleton in the cupboard'.どの家庭にも人に知られたくないような秘密がある)ということわざがあるが、この場面では死者であるカイをクローゼットからカムアウトさせるという点でまさに最後に戸棚のガイコツをぶちまけるような行為を行っているのだが、これを知ったジュンは「息子の愛を争うなんて、バカだった」という発言を返す。不在とされていた性愛が表に引き出されることで、ジュンは息子が子どもっぽい友達付き合いでリチャードとつるんでいたのではなく、大人としての自立的性愛によってリチャードと結びついていたのであり、自分は息子の成熟を邪魔していたということに気付くのだが、死してようやく息子が大人であったことがわかるというのはかなりつらい幕切れでもあると思う。

 あまりまとまらなくなってしまったし、大変深刻なつらい映画ではあるのだが、主演のベン・ウィショーチェン・ペイペイの演技が素晴らしいのはもちろん、アンドリュー・レオンはびっくりするほどイケメンで、死者役だというのにこれが映画初出演とは思えないような存在感だし、ナオミ・クリスティも演技は素人らしいのだがとても良い。ジュンの恋人アラン役のピーター・ボウルズも達者である。これに「夜来香」や'Sway'のような昔ながらのポップスがかぶさり、とてもエレガントな印象を与える作品になっている。ちらつく死者の影や花束にはちょっと『ダロウェイ夫人』なんかを思わせるところもあり、よくできた作品だと思う。

追記:この作品はベクデル・テストにパスしないと思う。というのも、ヒロインのジュンが英語を話さず、通訳のヴァンがいるときはだいたいリチャードかアランがいるので、女性が2人で話す場面があまり映画にうつらない。