三丁目の白色矮星〜ままごと『わが星』

 ままごとの『わが星』を三鷹市芸術文化センターで見てきた。岸田戯曲賞をとった作品ですごく評判がいいので楽しみにしていたのだが、意外なくらいつまらなかった…

 舞台は基本的に円があり、その中にちゃぶ台など最小限のセットがある。登場人物は少なく、小道具なども少ししか使われていない。リズムや音楽をふんだんに使っており、台詞がそのまま歌になるような演出をしている。全体的に演技とか演出の質はとても高いと思う。

 しかしながら、そもそも話の基本的なコンセプト自体が私にはピンとこなかった。ヒロインであるちーちゃん(地球)を中心に、宇宙の始まりから終わりまでを少女とその家族の一生に重ね合わせる、というようなものなのだが、私にはどちらかというと「個人の人生を壮大な宇宙に開く」というよりも「宇宙をものすごく小さい家庭領域に無理矢理詰め込む」みたいな話に見えて、スケールがとても小さくまとまってしまうところに非常にがっかりした。宇宙を人間の人生に落とし込んで感情に訴えるような演出で処理するっていうのは、宇宙をわかりやすく提示しているように見えてむしろ宇宙の壮大さとか歴史の厳しさみたいなものを矮小化しているような気がする。それこそ、恒星が縮んで矮星になっていくみたいなスケール感の減少がある。

 なぜこう思ったかというと、まず描かれている家庭がかなり保守的で、父が働き母は主婦で…というもので、このあたりに『三丁目の夕日』みたいな妙なノスタルジアを感じたから、というのがある。宇宙の終息に向かっていくところにベタな昭和の家庭風景とか、いくらなんでもスケールダウンしすぎだ。さらにヒロインのちーちゃんと友人である月ちゃんの人生を追うシークエンスがあるのだが、ここも「少女ふたりが大人になり、ヘテロセクシュアルな関係にとりこまれて少しずつ会う機会がなくなり、子どもが生まれ、おばあさんになって死ぬ」という、異性愛にもとづく生殖中心のありがちなライフプランが示されている上、子どもが生まれてから老母になるまではすっとばされており、熟年期の成熟とか叡智とかが描かれることはなく、ものすごく浅薄に女性のステレオタイプ的な人生をなぞってるだけみたいに見える(ここは女優二人がとてもうまく、うまくやればすごくフェミニズム的にも芸術的にも素敵なシークエンスになったかもと思うと惜しい)。どうも地球と月が少しずつ離れていっていることに基づく構成らしいのだが、なんだかこういう星の距離を人間の距離に安直に落とし込んでセンチメンタルに描くのって、かえって宇宙の壮大さをバカにしていないかなぁ…と思う。さらに宇宙の終焉に際して家族たちがとる、あがきもしないでただ運命を待つような態度はなんだか辟易して、もっと孤独とか破局にきちんと向き合えよ!!という気になってしまった。もう1つ付け加えるとすると、観測者として登場する2人(といっていいのかわからないが)がたまに別の役者が演じるなどアイデンティティの不確定性を賦与したみたいな演出になっているにもかかわらず、おっぱいの話をするなどかなり強くヘテロセクシャル男性として提示されているのはどうかと思った。結局、観測する男と観測される女の出会いという、昔ながらの「男の科学者が自然の女神を探求する」モデルに宇宙の歴史をあてはめてないか?こういうところから、100億年があっというまにすぎるスケールの話をやっているのに、ステレオタイプを繰り返すようなちっちゃい話になっていると思った。

 なお、私が感じた違和感に近いことはこちらこちらの劇評のほうがうまく言ってくれている気がする。