演劇的不自然をどう処理するか?『シンベリン』の映画化『アナ−キー』

 マイケル・アルメレイダ監督の新作で、シェイクスピアの『シンベリン』の映画化である『アナーキー』を見てきた。

 アルメレイダは既に『ハムレット』をモダナイズした映画を撮っており、そのときに組んだイーサン・ホークを今回も起用している。『シンベリン』も完全にモダナイズされており、古代ブリテンローマ帝国の争いは麻薬王シンベリンが率いるブリテン団とローマ警察の抗争になっている。

 物語は原作に非常に忠実だ。ブリテン王女イノジェンは父である王シンベリンの意に背いて財産も身分もないポスチュマスと結婚するが、ポスチュマスはこのために追放される。シンベリンの二人目の妻である王妃は連れ子であるバカ息子クロートンをイノジェンと結婚させたいと願い、暗躍する。一方、ポスチュマスは追放先で会った男ヤーキモーと妻イノジェンの貞操について賭けをすることにする。ポスチュマスはイノジェンは自分を愛していて貞淑なので絶対に浮気などしないと主張したが、ヤーキモーはそんなに貞節な女がいるわけない、自分が口説き落として肉体関係を持ってみせると豪語し、イノジェンのもとを訪ねる。ところがヤーキモーが口説いてもイノジェンは全く応じないため、ヤーキモーは計画を変更し、預け荷物の中に入ってイノジェンの部屋に忍び込むことにする。ヤーキモーは夜中に荷物から出てイノジェンの部屋の様子や体の特徴を覚えて帰り、ポスチュマスにそれを話してあたかも自分がイノジェンと肉体関係を持ったかのように信じさせてしまう。怒ったポスチュマスは家臣ピザ−ニオに命じてイノジェン暗殺をたくらむが、ピザ−ニオはそれに従わず、イノジェンを男装して逃がす。イノジェンは山の中で若々しい兄弟とその父だという男に助けられるが、実はこの男はかつてシンベリンに仕えていたベレーリアスで、息子であるという兄弟はイノジェンの兄弟であった。ベレーリアスはシンベリンに疎まれた復讐としてその息子ふたりを誘拐したのだ。バカ息子のクロートンはイノジェンを強姦しようと探し回っていたが、途中でこの兄弟の兄のほうにケンカを売ったためあっけなく殺されてしまう。一方、イノジェンもピザ−ニオが誤って渡した眠り薬を飲んで倒れてしまい、ベレーリアスと兄弟はイノジェンも死んだと思って、クロートンと一緒に埋葬してしまう。いろいろあって最後にブリテンとローマの決戦があり、全ての悪事が明らかになり、兄弟も恋人も全員再会して、王妃は死んでおしまい。

 …と、いうことで、この『シンベリン』ははっきり言ってプロットだけだとかなりワケのわからない話だ。そんなに頻繁に上演される演目でもない(私も一度しか観たことは無い)。そんな話を映画化したというだけでとにかく野心的だとは言える。

 モダナイズのほうは、まあ舞台でやるならこの程度はフツー、というようなものなのだが、なんというか舞台ではよくあるようなやり方をそのまんま映画でやったせいで、映画と演劇のリアリティの境界の違いがはっきり出てしまったような気がする。こんだけぶっ飛んだ話なのに出てくる連中はあまり芝居っ気なくリアル指向の演技をしているので、見た目がものすごく不自然なのである。アルメレイダ版『ハムレット』はまだ話がしっかりしているのと、小道具の使い方が洗練されていたせいで面白かったと思うのだが、『シンベリン』はもともとシュールな話をやたらリアルな感じでやってるせいで、話と演技や演出の間にすごいギャップがある。ローマ帝国ブリテン王国の戦いという帝国主義的なテーマが田舎町でのギャングと警察の殺し合いという卑近な次元に矮小化されているあたりはブレヒト的な異化効果を感じるし、そのあたりはけっこう面白いとは思うのだが、とはいえそんならもっと異化らしくカメラに向かって話したりしたほうがいいんじゃないかなと思う(なお、日本語字幕では英語版の台詞ではうまいこと帝国主義的テーマを保っているあたりが「警察」とか「麻薬王」になってしまっているのでこのあたりの矮小化がわかりにくいと思った)。イーサン・ホークエド・ハリスの演技はいいし、またピザ−ニオにジョン・レグイザモ(ラーマン版『ロミオ+ジュリエット』のティボルトである!)を配してかなり大きな役にしているあたりはとても良いと思うのだが、いかんせんこれではちょっと不自然すぎると思う。

 ちょっと思いついただけのだが、マイケル・アルメレイダとバズ・ラーマンの映画を見比べると、舞台芸術の素養の多寡とリアリティの境界設定がかなり深く関わってるのではという気がする。ラーマンはもともと舞台の素養がかなりある人で、舞台芸術的なことを映画に持ってくるとものすごく不自然になるということをよく理解しており、それをうまく過剰な芝居っ気でねじ伏せてくれていると思うのだが、アルメレイダはラーマンほど舞台に関心が無いみたいで、すごく舞台っぽいことを映画でやってるのにその時に生じる不自然さがあたかもそこにないかのように振る舞っている気がする。そういえばアルメレイダは「5分間版『偉大なるギャツビー』」っていう短編を撮ってるらしいのだが、これ、ラーマン版ギャツビーと見比べたいな…