キング牧師の政治戦略が効かない国、日本〜『グローリー/明日への行進』

 エイヴァ・デュヴァーネイ監督『グローリー/明日への行進』を見てきた。やたらにアフリカンアメリカンの歴史に関する映画に『グローリー』ってタイトルをつけるのはやめてほしいものだが(この映画の原題は舞台になった街の名前Selmaで、Groryは主題歌のタイトルである)、内容はとても良かった。

 舞台は1965年、アラバマ州には人種隔離政策で悪名高い知事のジョージ・ウォレス(ティム・ロス)が居座り、大統領のリンドン・ジョンソン(トム・ウィルキンソン)は南部で投票権を奪われ、暴力を振るわれるアフリカンたちについて煮え切らない態度をとる。マーティン・ルーサー・キング牧師は家庭でトラブルを抱え、FBIに盗聴されまくり、殴られたり逮捕されたりしながらアフリカンの権利のために活動し、アフリカンがほとんど投票権を拒まれているアラバマ州の街セルマから州都モンゴメリーまでの行進を計画。妨害に遭いながらも投票権の獲得を目指す。

 この映画は60年代のアメリカ南部でアフリカ系アメリカ人が受けていた暴力や権利侵害を克明に描き出す一方、それに対抗するために政治活動家たちがどういう戦略をとったかという泥臭い側面をきっちりと描き出している。まずはセルマのアフリカンの市民たちが地元の役場の判断により有権者登録を拒まれているという状況があり、キング牧師を含めた活動家たちは高い理想を抱いてその解決を目指すわけだが、この理想の高邁さに対して使う手段はかなり地に足のついたものである。活動家たちはどうやったら有権者登録問題を解決できるかいろいろと分析を行い、大統領を相手にねちねちと交渉し、譲歩できそうなところは譲歩し、被害が出そうな時は後ろに引きつつ、あの手この手でこの重大な人権問題に世間の目を向けさせようとする。

 この作品は必ずしもキング牧師ひとりの話というわけではなく、群像劇的にいろいろな人の行動を描いているし、また弱音を吐いたり迷ったりするキング牧師の人間らしい弱さも描かれていて、あまり主役だけを理想化するような作りにはなっておらず、こういう高邁な理想を持って社会を変えた人々も観客と同じ人間であるということをしっかり示している。キング牧師マルコムXと協力したがらずにゴネる場面などはまさにそうで(ちょっとマルコムXを軽視しすぎているきらいがあるとは思ったが)、こういう知性と精神力に富んだ人物でもゴネたり変なことを言ったりすることがあるのだな…と思ってしまう。演じているデヴィッド・オイェロウォもとても良かった。脇もいろいろな役者で固めており、オプラ・ウィンフリーがセルマで有権者登録を拒否される女性、アニーの役で出てきて、いつものスターぶりはどこへやらで物静かな庶民ぶりを見せる。主題歌を歌っているラッパーのコモンも出演しているし、かたき役のウォレスを演じるティム・ロスなども達者である。会話の演出はけっこう全体的に細やかなのだが、最初のほうで四人の女の子がヘアスタイルの話をする場面でベクデル・テストもパスする。ただ、字幕の翻訳はあまりよくないかも…演説の翻訳が難しいのはわかるが。

 そうしてクライマックスにセルマからモンゴメリーへの行進を持ってきてニュースフィルムなども交えてその後の経過を語り、最後はコモンとジョン・レジェンドの'Glory'が流れて終わるのだが、私はこれを観ていて非常に元気をもらったんだけれども反面、どんよりした気分で映画館を出た。この映画では社会的不公正に人の関心を向けさせ、解決する手段として、朝夕報道に出るような見栄えのする抗議活動をしないといけないとか、演説で人を動かし理想を訴えないといけないとか、信仰に訴えるとか、いろいろな政治的戦略が強調されている。おそらくどれもアメリカでは絶対効果があるのだが、現状、日本ではどれも効かない状態になってる気がしたからである。今日は国会で安全保障関連法案が強行採決されたが、どんなに見栄えのする抗議活動を大勢でやろうと報道はそれを効果的に伝えないし(この映画でセルマの事件に張り付いていたニューヨーク・タイムズのリードみたいな記者は今、日本にどれくらいいるだろうか?)、いいように切り取られて冷笑で迎えられる。伝統的に日本では政治家の雄弁の美徳というのが尊ばれないところがあるので、スピーチの力というのもそんなに期待できるわけではない。信仰についてもそうで、今回の法案については真宗大谷派とかカトリックとかが反対を示しているが、これもそんなに効いているとは思えない。ただ、そんな状況であってもこの映画は高邁な理想とそれを実現する政治戦略の両立をとてもきっちりと描いた映画だったし、今みたいな状況でこそおすすめできる。