アメリカンな感情教育〜『インサイド・ヘッド』(ネタバレあり)

 ピクサーの最新作『インサイド・ヘッド』を見てきた。

 舞台はミネソタからサンフランシスコに引っ越した少女ライリーの頭の中。ライリーの頭の中には、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリの五つの感情があり、それぞれ擬人化されている。この五つの感情が脳内の司令部でライリーの行動をつかさどっているのだが、ヨロコビはカナシミをちょっと軽視してるところがある。ところが、ヨロコビとカナシミがひょんなことから司令部の外にはじき出されてしまって…
 
 ヴィジュアル的には文句のつけようがなく、サイケデリックだが嫌味のないカラフルで美しいデザインは見物である。感情たちの生き生きとした動き、とくにヨロコビのキラキラした輪郭線なんかは本当に見ていてキレイだ。さらにそのヨロコビの声をあてているのがエイミー・ポーラーで、すごくはまり役だと思った。また、話のほうもとても完成度が高く、「なぜ人間には悲しみが必要なのか」ということを、親しみやすい例を用いてわかりやすく追求している。

 …しかしながら、これは完全に個人的な好みの問題だと思うのだが、話がいちいちアメリカンなノリでちょっと私にはついていけないところがあった。まず、この話においてはライリーが子ども時代を過ごした中西部のミネソタの田舎町が心の故郷として描かれる一方、グローバルで人種も多様な大都会であるサンフランシスコはゴミゴミしたヴェジタリアンの巣窟(!)として描かれており、いろんな人間が住む国際都市サンフランシスコ(映画ではサンフランソウキョウとなっているが)をあれだけ魅力的に描いていた『ベイマックス』に比べてかなり内向きの作りになっていると思う。さらにやたらにポジティヴシンキングなヨロコビ(ポーラーがなかなか上手なので余計ウザい感じに見える)が最初にカナシミに仕事をさせないようにするあたりとか、人間の夢をハリウッドスタジオで作っているところとか、潜在意識や抽象概念のとらえ方、批判的思考や「事実と意見」を区別する箱があるところなんかもすごくアメリカ的な発想だと思う。想像上の友達が脳内にいるところもそうだし(ビンボンはいいキャラだったけど)、ピエロ恐怖症(ウィキペディアに項目がある)なんかはパーティにピエロがくるアメリカならではの恐怖症である。『ハングオーバー!』の時もそうだったのだが、すごくよくできてると思うけどちょっとノリがアメリカすぎてそんなに私は好きではない。これは世界のみんなにアピールするというよりは、アメリカ人の心の故郷、幼年時代へのノスタルジーに訴える、とても個人的な(という意味においてはすごくピクサーらしい)作品なんじゃないだろうか。

 ちなみにこの映画はベクデル・テストをパスしている…と思うのだが、それはヨロコビとカナシミを女性と考えた場合においてのみである。