ベネディクトは良いが、演出の関節が外れている〜ベネディクト・カンバーバッチ主演、バービカンの『ハムレット』(演出ネタバレ注意)

 話題沸騰のベネディクト・カンバーバッチ主演『ハムレット』バービカンで見てきた。演出はリンジーターナー
 ↓売り出した瞬間にウェブサイトで買ったチケット。一瞬で売り切れたらしいので幸運であった。

 バービカン内に入ると、ツイッターでの観客の感想を投影したプロモーションやってる!こういうのが私の今の研究テーマなので興味津々で観察してしまった…

 中に入ると、いつものバービカンとちょっと雰囲気が違う。実は私はバービカンで卒業式やったし、留学中は芝居を見によく来てたんだが、たいがいの古典の上演より断然たくさん日本人のお客がいるし、全体的にあまり芝居慣れしてない感じの女性客が多い(バービカンの女子トイレは手洗いの水を出す場所がややこしくて普通と違うんだが、知らない人が多いみたいだった。これから行く方、シンクの水は足下のスイッチです!)。また、おそらく、勝手に上演中にベネディクトを撮影するファンがいたせいだと思うのだが、いたるところに「撮影禁止」「電話はフライトモードじゃなく電源から切ってください」という注意書きがあり、上演前にも何度も放送があった。

 それで上演内容なのだが、まあ私はベネディクト・カンバーバッチの大ファンであるシェイクスピアリアンなので若干、贔屓が入っている可能性があるのを考慮してほしいんだけれども、全体としてベネディクトはたいへんよかったが演出はそれほど良くなかった。『ハムレット』ふうに言うと、「演出の関節が外れている」。

 ベネディクト・カンバーバッチは非常に知的なハムレットだが、同じく知性が特徴で静かな繊細さを持つハムレットであったローリー・キニアに比べるとややエキセントリックなエネルギーがある感じで、だいぶ違う。同じ知的ハムレットでもこんなに印象が違うというのが『ハムレット』という作品の役者を引き出す可能性である。私が一番良かったと思うのは、メモを出して「人は微笑み、微笑み、悪党たり得る」ことを書きこもう、という台詞である。このあたりの一連の台詞はルネサンス人の記憶にまつわる習慣を示す台詞として有名なのだが、『シャーロック』でも、ベネディクトの当たり役、シャーロックがマインドパレスというルネサンスの記憶術を思わせる方法でいろいろな考えを整理する場面がある。『ハムレット』のこの場面はいわば『シャーロック』のマインドパレスの古典版とも言えるもので、この台詞を言うベネディクトを是非見たいと期待していたのだが、私の予想どおりちょっと神経質な知性がたいへんよくこのあたりの台詞やしぐさに似合っていて良かったと思う。他の独白も十分観客を引きつけるところがあるし、持ち味であるユーモアも生かされてかなりお客を笑わせている。ただ、演出がこういうハムレットの個性を引き出せているかというと疑問だ。個人的には大きな問題点が3つあると思う。

 まず、セットが大仰かつ抽象的すぎる。セットは階段を通って二階にのぼれる非常に大きいお屋敷のセットで、一階部分は大広間、二階部分は舞台をぐるっと囲む室内版の吹き抜けバルコニーのようになっていて、上下の階層を使った演技ができるようになっている。たいへん精妙に作られているのだが、大がかりすぎることもあって、基本的に背景は変えられない。ここにテーブルなどの道具類を出し入れして場面を転換するのだが、これにかなり無理がある。素早い場面転換ができない関係で、デンマーク国王の執務室と同じ部屋でハムレットがオフィーリアに「尼寺へ行け」と言い放つ「尼寺の場」が起こるし、ハムレットとガートルードが話す「居室の場」も王妃の私室ではなく、劇中劇が披露された広間で起こる。これがハムレットと女性陣の関係に影響を及ぼしており、狭く私的な空間での個人的対決ではなくだだっ広い豪華な空間で議論してるように見えてしまうので、ハムレットとオフィーリアやガートルードの間の暗くて親密な関係性がよくわからなくなっていると思う。これならセットなんかほとんどないほうがかえって想像力をそそるのでは、と思ってしまったし、ハムレットと女たちの関係になんらかの公的な要素や広がりを加えたいということならもっとやりようがあったのではと思う。第一部終了後、休憩中にこのセットが崩壊し、第二部は土だらけの屋敷の廃虚で展開するのだが、この効果もかなり疑わしい。墓場の場はともかく、フェンシング対決まで廃虚では足場が悪いのばかり目立ってしまうと思う。不条理な外見を作りたいのかもしれないが、ちょっと見た目へのこだわりが鼻につくわりに何を表現したいのかはっきりしない。

 ふたつめの問題点だが、狂気のハムレットがおもちゃの兵士や城で遊ぶところの位置づけが不明である。ハムレットは亡き父王の亡霊に出会い、父王は王弟(つまりおじ)のクローディアスに殺されたのだという話を聞いたあと、しばらく狂気のようなふるまいをする。このとき、ベネディクトのハムレットは大きなおもちゃの兵士を持ち出し、これまたおもちゃの城にこもって戦争ごっこをしたりして過ごすのだが、他の部分とあまり有機的につながっていないのでいったいこの演出が何を表現したいのかコンセプトが非常に不明瞭だ。(イメージ写真に出てきているのが子どもであるということで)おもちゃで遊ぶということを通して子どものようなイノセンスを表現したいのかもしれないし、男らしさへの執着心を表現したいのかもしれないし、劇中劇の場面以降'King'と背中に書かれた衣装を着込んでいたことからすると継承権が奪われたことへの恨みを表現したいのかもしれないし、単に城の壁を通して閉ざされた心を表現したいのかもしれないが、このあたりの表現がベネディクトのハムレットの特徴である、エキセントリックな知性に潜む人間性とユーモアにきちんと結びついていない。エキセントリックな笑いが表面的には強調されるのだが、あまりベネディクトの持ち味とあっているようには見えないし、またハムレットの内心を表現するのにも適してないと思う。

 三つめだが、最後のフェンシングの殺陣がとっちらかりすぎている。これはセットの見た目とも関連すると思うのだが、全体的に殺陣の場面の動き(ハムレットとレアティーズにかぎらず、他の役者も)がごちゃごちゃしている。ハムレットもレアティーズ(コブナ・ホルブルック=スミス)も動くと見栄えのする役者なので、対戦相手であるこの2人の動作を強調できるようなもっとすっきりした殺陣にしたほうがいいと思った。さらにガートルードが毒を飲むタイミングが他の上演に比べると遅すぎるわりに、ガートルードがろくに「お酒に毒が!」という台詞も言わないうちに皆が「うわー毒殺だあ!」みたいな雰囲気で騒ぎ始めるので、もたついてるんだか急展開なんだかよくわからなくなっていると思った。ハムレットとレアティースが傷ついて死ぬところ以降はけっこう良かったと思うので、その前の殺陣はもっと原典に忠実な順番で、動きもシンプルにしたほうがいいと思う。

 全体的には、面白いところもけっこうある。テキストはかなりカットされていて、ちょっとどうかと思うようなところもあるがわりと効果があがっているところもあると思う。とくにはじまり方がふつうの『ハムレット』(原典は夜警の場面からはじまる)とは違っており、ハムレットとホレイシオの親密さをプロローグ的に強調しているのは私は良いと思った。ここだけセットが違い、狭い空間に暗い照明でスクリーンごしの演技になるのですごく親密な暗さがある。また、オフィーリアがカメラを持ってるという設定も良い。オフィーリアは原作では常に見られる女という描かれ方をしているのだが、カメラを持つことで見る主体としてのオフィーリアが導入されており、オフィーリアの狂気の場面でこの演出が回収されるところも気が利いていると思った。ただ、やはり上にあげたようにベネディクトの個性がちゃんと生かされていないように見えるのは問題だ。『ハムレット』はハムレットだけを中心にぐるぐるまわるような芝居であっては面白くないと思うが、一方でシェイクスピア劇最大の役柄であるハムレットの個性に大きく左右されるのはいたしかたない。そこで演出の個性と役者の個性があっていないと、芝居全体が関節の外れたようなものなってしまう。何の因果か、私が(こんなにベネディクトが好きなのに!)それを悲しまねばならぬとは…