演出は良いが、セリフの流れが…チョコレートカンパニー改めディ・ショコラーデ『タイタス・アンドロニカス』

 新宿のSpace雑遊で、チョコレートカンパニー改めディ・ショコラーデの『タイタス・アンドロニカス』を見てきた。この作品は切株に人肉食などが満載で、シェイクスピアの作品の中でも最も残虐なもので、一時期は非常に不人気だったのだが、辛辣な政治諷刺や独特の様式美のため最近はけっこうよく上演される。

 真ん中を舞台にし、周りを客席が取り囲むセッティングで、客席の足下にはトイレットペーパーの芯を使った飾り付けがしてある。いったいどういうことかと思ったら、この演出では登場人物が死ぬとその人物は大きなトイレットペーパーの芯状の物体(模造紙とかポスターを保存する時に使う筒に似たもの)に置き換えられるのである。その人物を演じていた役者はさっと消えて芯だけになるので、最後の場面なんかは舞台上が芯だらけになる。生々しい血の演出などはそれほどないにもかかわらず、まるで何の生気もない肉塊がごろごろ転がっているかのようになってかえって想像力をそそる。さらに強姦され、舌と手を切断されたラヴィニアは口にトイレットペーパーの芯をくわえ、両手は片側を赤くした筒になって登場するし、タイタスの腕も切断後はそうなる。さらに人間の首や生まれた赤ん坊もトイレットペーパー状のもので模式的に示されており、人間をとるにたらない物体、むしろゴミに近いようなものとして扱う演出になっている。とくにタモーラとアーロンの不倫から生まれた赤ん坊が黒いトイレットペーパーになっているあたりは、赤ん坊と死体の共通点(未来の欠如)を暗示しているようで不気味である。いくら人間たちが復讐に打ち震えようと、最後はゴミになるのである。

 残虐切株描写が多い『タイタス・アンドロニカス』の演出としてはこういう工夫はかなり効果的だと思うのだが、惜しいのはどうも役者が台詞をトチったり言いよどんだりしてしまうところがずいぶんあったことである。色っぽく頭の回転が速いタモーラ(古暮美幸)や、舌を奪われ苦悩に苛まれるラヴィニア(藤光子)は良かったと思うのだが、場面によってはけっこうどの役者もセリフがうまく流れていないところがあった。土曜日の二回目の公演だったので、疲れて調子があがらなかったのかな?