男であることの美と問題〜新国立劇場『血の婚礼』

 新国立劇場で演劇研修所9期生試演会『血の婚礼』を見てきた。私の好きなフェデリコ・ガルシーア・ロルカの戯曲なのだが、この演目を舞台で見るのは初めてである。

 もとの戯曲はけっこうシンプルなあらすじのもので、スペインの田舎を舞台に、結婚式の場から花嫁と昔の恋人が闘争し、花婿と昔の恋人が死ぬまでを描くというものである。えらく単純な話のようだが、地方の暮らしを克明に描くリアリズムと、神話的・表現主義的な詩が同居する一筋縄ではいかない悲劇である。

 やはり戯曲じたいが非常に優れていると思ったのだが、読んだときよりも劇場で見た時のほうがより現実的な問題を扱った作品としてとらえられるような気がした。運命とか選択とかを神話的に描いた作品ではあるのだが、一方でこの作品は伝統的な男性性を問題化した作品でもある。母親に期待されている花婿と、花嫁を愛するレオナルドはそれぞれ別種の「男らしさ」を体現した存在として描かれているわけだが、結局は親孝行で穏やかな花婿も、荒々しく馬を乗り回すレオナルドも「男であること」から逃れられず、暴力の応酬で死んでいく。そして、おそらくこの男性性の応酬によって最も被害を受けている花婿の母も実はこの構造に加担している。母親は夫も上の息子も殺人で失い、ナイフに象徴される男性的暴力を憎んでいるが、一方で息子に「自分が主人であるということを花嫁に教えろ」などと助言する。母親は、暴力的に人を殺す「男性性」と権威を持って女性に命令し保護もする「男性性」を分けて考えているが、実際にはこの暴力と権威は同じ根を持つものであり、花嫁をとられた息子がレオナルドと殺し合うのはこの男性の女性に対する支配と保護が男性同士の争いに容易につながるからである。男同士が殺し合い、後に残った女は悲嘆に暮れるだけの結末は、伝統的に男らしいとされるものの失敗を描いているように見える。

 ところが、この失敗に引きずり込まれる「男らしい」男たちというのはかなり魅力のある人々として描かれている。キャスティングもあるからだろうが、若々しく可愛らしい花婿の肉体も、暗い情熱を秘めたレオナルドの肉体も、どちらも台詞と動きの両方を通してある種の特殊な美しさを持つものとして称賛されていると思う。この男性性に対する美的称賛と問題化がないまぜになっているところが面白いと思うし、ロルカがゲイだったことを考えるとちょっとグザヴィエ・ドランの『トム・アット・ザ・ファーム』(内面化されたホモフォビアナルシシズムがないまぜになってる)なんかと比較したくなってしまって、クィアな読みも可能かなと思ってしまう。

 クィアといえば、花嫁とレオナルドの関係もなんかちょっとクィアである。花嫁と花婿の結婚からはたくさんの子どもが生まれることが期待されているわけだが、花嫁はレオナルドに「あなたとはベッドも共にしたくない、でも愛している」と言っており、花嫁とレオナルドの関係は性とか生殖につながらない愛なのである。この子どもをなさない激しい情熱的衝動というのは『嵐が丘』なんかを思わせるところがある。

 こういう感じでいろいろ考えるところがある戯曲なわけだが、全体的に柱が何本か立っているだけのシンプルなセットに月光を思わせる照明などをうまく使い、熱のこもった演出にしていたと思う。演技もみな良かったし、今後がとても期待できる。