完成された詩人としてのジョン・レノン〜『レノン』

 ジョン・レノンの命日なので、六本木のEXシアターで『レノン』を見てきた。命日ということで劇場内に献花台が設置されていた。

 本作はオーストラリアのパフォーマージョン・ウォーターズが制作し、スチュワート・ディアリエッタと二人芝居でジョン・レノンの詩的人生を浮かび上がらせるという作品である。芝居とかショーというよりはポエトリーリーディングに音楽がついたものに近い。ピアノとギターだけのシンプルな楽器編成で、ジョン・レノンの発言を読み上げ、それに近いテーマの曲の一節を演奏していくことで、ジョンの考え方とか詩人、作曲家としてのスタイルの変化を描いていく。全体的にジョン・レノンを、葛藤を繰り返しつつ成長した非常に完成された詩人/音楽家としてとらえており(「完成された」という表現が適切かわからないが、これ以上成長・変化しないという意味の「完成された」ではなく、独創的で優れたヴィジョンと技量を発展させたという意味での「完成された」)、ビートルズやレノンの楽曲を使っているから音楽の演目みたいに見えるが、実は同じ感じのフォーマットでウィリアム・バトラー・イェイツとかシェイマス・ヒーニーとかの詩的人生も再構成できそうな気がする。単なる物まねショーではなく、しっかりした構成を持って作られた演目であることはたしかである。エディンバラ・フリンジで上演されたらしいが、たしかにフリンジでウケそうな演目だ。

 ただ、とても考え抜かれた演目で面白いことは確かなのだが、こういう詩人の詩を完全に個人的な発言みたいに抜き出して編集していくスタイルというのはちょっと難しいところもあると感じた。偉大な詩人の詩、偉大な音楽家の歌というのは個人的な発言であるところがある一方、類い稀なる想像力で生みだされた完全な虚構であることも多く、ゆえにユニヴァーサルに愛されたりするのではないかと思う。そのため、'Woman'とか'Beautiful Boy'みたいな個人的な味わいの楽曲を使うのはわかるのだが、'Lucy In The Sky With Diamonds'とか'Norwegian Wood'みたいな曲はむしろ人生の現実よりは想像力の領域にあるものなんじゃないかという気がして、ここでこの楽曲を使うのは適切なのかなーと思うところがいくぶんあった。