シェイクスピアはこうでなきゃ!〜カクシンハン『ジュリアス・シーザー』(ネタバレあり)

 カクシンハンによる『ジュリアス・シーザー』を池袋のシアターグリーンで見てきた。非常に荒削りな演出でまだいくぶん完成してないところもあるのだが、それでも「シェイクスピアはこうでなきゃ!」というようなキレッキレの演出で大変に面白かった。絶対におすすめできる。

 とにかく素晴らしいのは、日本の舞台としては非常にきちんとシェイクスピアを現代の政治にリンクさせていることである。『ジュリアス・シーザー』は大変政治的な芝居で、英語圏ではオールフィメールでやるとか、サブサハラのアフリカの国家という設定でやるとか、とにかく現代政治とリンクさせた演出にすることが多い。私も、基本的にこの芝居においてシーザーはローマで殺される偉人ではなく現代に生きる政治家であり、ローマは過去ではなく生々しい現実として表現されるべきだと思っているのだが、このカクシンハンの『ジュリアス・シーザー』はまさに現代日本に生きている観客のための舞台である。

 まず、観客は全員、開演前にマイナンバーを書いた紙を渡される。最初に市民ナンバーを読み上げさせるなどの客いじりがあり、お客はこの時点で全員、ローマ市民にさせられる。このマイナンバーを使って日本のお客とローマ市民を近づける演出は良かったと思う。詩人のシナのところでもこのマイナンバーを検問で読み上げるなどのやり方で使われるのかと思ったが、再活用が無かったのが残念だ。

 さらにこの演出が面白いのは、ジュリアス・シーザーは安倍首相であり、ローマの元老院は無能な日本国会であるというところだ。この演出では原作にない元老院での討議の場面があり、シセローが議長をつとめて「○○君」などと議員を呼び、それぞれの議員が消費税とか少子化について提案をし、それをシーザーが安倍首相に似たやり方でのらりくらりとかわすという日本の国会を痛烈に諷刺した場面がある。ここではシーザーが繰り出す日本政治の薄っぺらい(かつ安倍的な)言葉と、壮麗なシェイクスピアの詩がグロテスクな対比をもって示されており、我々がふだん政治の場で聞いている言語がいかに軽薄なものかということをイヤというほど思い知らされる演出になっている。さらにシーザーを単なる偉人ではない汚いところのある政治屋、独裁的傾向を垣間見せる人物として提示する効果があり、芝居全体に複雑さを与えている。そして国会でつかみ合いの乱闘中にシーザーが背中からどさくさまぎれに刺されるという、まるで日本の国会を悪くデフォルメしたような暗殺場面が続く。この場面のスピーディで辛辣な流れは本当に面白い。

 このプロダクションではキャシアス(石橋直也)が緑っぽい髪の毛に目つきの悪い奇抜な服装の男で、かなり子どもっぽく癇癖の強い人物として描かれているのだが、後半部分ではキャシアスのみならずブルータス(河内大和)も悪意は無いがいささか大人げないところのある男であることが強調され、暗殺を行った側にも無能な政治家という側面があることがうまく描かれている。前半ほどの辛辣さはないが、この独裁者を殺してもその後は無能な政治家たちの小競り合いが続くばかりという不条理劇のような状況は、『ジュリアス・シーザー』を『リア王』みたいな悲劇や『尺には尺を』のような問題劇に近づけていると思う。この芝居においてはアントニーやオクテーヴィアスも含めて有能さと美徳を兼ね備えた政治家はひとりもいない。血で血を洗う政治抗争が続くばかりだ。

 全体としてはちょっとできあがっていないところもあり、とくにブルータスの白い軍用天幕を設営する時に布が舞台奥のドラムセットブースに引っかかってしまってもたついたり、ちょっと台詞のタイミングがあわなかったりするところもある。真以美が男性であるアントニー役という配役は素晴らしいと思うが、声を枯らして男性っぽくするのはちょっと失敗ではないかと思った(アントニーは朗々たる弁舌が特徴なので、わざと男っぽくせず流れるように話したほうがいいと思う)。しかしながら生演奏のドラムが舞台に響き渡る中でひたすら生々しい政治が展開するこの『ジュリアス・シーザー』はとにかく私の超好みである。まだチケットとってない人はどうぞ!