根本的なコンセプトに賛同できない〜shelf『ヘッダ・ガブラー』

 渋谷のカミニートでshelfによるイプセンヘッダ・ガブラー』の上演を見てきた。とにかくつまらなくて、途中で二回ほど意識が遠のいた…

 まず、テクストの順番をバラバラにして、役者を特定の役に固定しないという実験をやっているのだが、正直この芝居でこれが機能すると全く思えない。ヘッダは妊娠していて(調べてみたら妊娠してないという解釈もあるようだが)、この芝居ではそういうことを含めて情報の開示の順番が大事だと思うのだが、これでは心理の移り変わりが順を追って変化する様子がわからないのでこの芝居の醍醐味が著しく減ると思う。

 さらに、どうもこの芝居のコンセプトは「ヘッダの持て余す自身の生への退屈さ。それはしかし人が自分の生について、それを能う限り劇的で充実した何ものかにしたいと求め、その先に取り替えのきかない唯一の私を想像するという、そもそもが、近代的な自我、人間中心主義(ヒューマニズム)がその内に孕んでいた“欠陥”に起因するものではなかったか?」というものらしいのだが、私が思うに『ヘッダ・ガブラー』は全くそういう芝居では無い。ヘッダが退屈にとらわれているのはヘッダが女性であり、ヘッダにだけ近代が来ていないからだろう(限界はあるが、テアには既に近代が来ていて、ヘッダだけが取り残されている)。まあ解釈はいろいろあるだろうが、根本的なコンセプトに賛同できなかった。