途中までは大変良かったが、女性の描き方が…〜『太陽』(ネタバレあり)

 入江悠監督作『太陽』を見てきた。もとは芝居らしいのだがこれは見ておらず、今月末に見る予定である。

 ウイルスの伝播により、人類は太陽の光に当たることができないが頑健なノクスと、太陽の下を歩けるもともとの人類に分かれて、ノクスは進化した技術を享受しているがそれ以外の旧人類(キュリオ)は昔ながらの貧しい生活をしている。そんな中、10年前の殺人事件のせいでしばらく経済封鎖を受けていた旧人類の村とノクスの間の経済交流が再開し、ノクスに憧れる鉄彦(神木隆之介)はノクスの若い門番である森繁(古川雄輝)と親しくなる。鉄彦はノクスになるための体質転換手術のための抽選に申し込もうとするが、一方で村の教員である草一(古舘寛治)も娘の結(門脇麦)のことを心配し、勝手に手術の抽選に申し込む。

 途中まではとてもよくできているSFで、「人間らしさ」という名目で激しい抑圧を保存してしまった社会と、いろいろなものを犠牲にしつつも発展を目指している社会をけっこうよく描いていると思ったのだが、中盤の結が性暴力を受けるあたりから話がとっちらかって収拾つかなくなっていると思う。全体的にこの作品は男による女の搾取がかなり大きいモチーフになっており、ノクスの社会では女性がとにかく踏みにじられているという倫理的な問題提起がされているにもかかわらず、女性虐待の張本人であるクズな登場人物ふたり(強姦犯である拓海と、活動家で役に立たない克哉)がどうなったのかについてきちんとしたオチが無い。ベクデル・テストは結と玲子の会話でパスしているのだが、女性まわりの描き方については相当問題があると思った。

 まず、もとの芝居では結が強姦される場面は舞台上で明示的に描かれていないときいたのだが(これは公演を見て確認したい)、この映画ではかなりショッキングに成人男性(若いが)による未成年女性への性暴力が描かれている。そもそも最近の映画では、性暴力を批判するコンテクストではあからさまに暴力場面は見せないと思うのだが(ほとんどの場合は実際に性暴力を見せなくても批判的に描くことができるし、見せると単にショッキングで扇情的な場面、その意図がなくても女性の力を奪うような場面として受け取られかねず、作劇上の効果としてかえって悪影響だから)、この映画ではわりとあからさまな描き方だ。ところがその後は全然結の心理に寄りそわず、父親である草一が拓海に復讐すべく暴力を振るうところが描かれていて、女性に対する性暴力についてのプロットであるにも関わらず、全然結に焦点が当てられずに中心であるべき女性が周縁化されてしまう。男ばかりが前に出る因習的な村社会を描きたかったからということなのかもしれないが、こんな男性中心的なナラティブでは全然ダメだろうと思う(英語だけど、このあたりの問題についての参考記事としてこちらこちらをどうぞ)。もともと草一は結が入浴中に無遠慮に近づいて話しかけたり、勝手に手術に応募したり、娘の意志を全く尊重しない父親なのだが、こういう父親にストーリーラインを奪わせるのはどうかと思う。草一にボコボコにされた後の拓海がどうなったかなども描かれていないので、この性暴力のプロットは単に「抑圧的な社会で女性かわいそうですよー」ということをショッキングに見せただけでほとんど機能していないと思った。このへんの結の心理がきちんと描かれていないせいで、ノクスになった結が悩みを捨てて生きられるようになったというプロットもなんだかはっきりしないものになっている。そんなつもりはないのだろうが、まるで性暴力なんてすぐ忘れて生きていける、みたいに心理的な苦痛を切り下げていると受け取られかねない。

 また、過激派活動にハマったあげく、純子に責任を押しつけて出ていった克哉は、抑圧に対抗しているようで実は自分が持っている男性としての特権にあぐらをかいている男だと思うのだが、結の性暴力がかなりあからさまに描かれ、血を吐いて死んでいく純子の身体も映されている一方で、克哉がボコボコにされるディテールはずいぶんとはしょられている。村人が克哉をリンチしようとするところはあるが、ボコボコにされた克哉の身体とかはきちんと映らず、身体的な被害の描写がものすごくジェンダーで不均衡だ。旧人類の女性が受けた被害はあからさまに描くのに男性はそうでないので、全体的にこの映画は家父長制的共同体で抑圧された女性から主体的なナラティブを奪い、かわいそうな被害者という立場に押し込めているように見える。

 男性である森繁と鉄彦が心を通わせる描写とかはとても細やかなのに、女性まわりの描写がこんなにテキトーなのは非常に残念だ。この映画では異性愛や生殖は常に不毛なものとして描かれていると思うのだが、同性同士である森繁と鉄彦の関係には未来がある。このあたりはちょっとクィアな感じでとても爽やかだった…のだが、クィアポリティックスみたいなところに落とすんならもっとこの2人をあからさまに恋人同士にしたほうがいいんじゃないかという気もする。