父の抑圧とギリシア悲劇〜NTライヴ『橋からの眺め』(ネタバレと字幕解釈あり)

 NTライヴで『橋からの眺め』を見てきた。アーサー・ミラーが1950年代に書いた芝居で、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、マーク・ストロング主演である。

 舞台は50年代のブルックリンの波止場の近くに住んでいるシチリア系の一家。家長で波止場の労働者であるエディ(マーク・ストロング)と妻のビアトリス(ニコラ・ウォーカー)は、ビアトリスの姉の娘で孤児になっているキャサリン(フィービ・フォックス)を引き取り、実の娘のように大事に育てていた。キャサリンタイピストとして就職するのと同時にビアトリスのいとこであるマルコとロドルフォがシチリアで食い詰めてアメリカに密入国してくる。地域の習慣で、エディ一家は不法移民であるふたりをかくまって暮らすようになる。マルコはシチリアに妻子がいるため金を作って帰国したいと考えているが、若く独身のロドルフォはキャサリンと親密になり、結婚を考えるようになる。キャサリンを独占したがるエディはロドルフォを敵視し、地域の不文律を破って移民局に密告を…

 舞台は四角くほとんど何も置かれていない平たいセットで、ただし三方が透明なバーで囲まれており、役者はこのバーに座ることができる。奥に入退場できるドアがついている壁がある。たまに椅子とか布とかが出てくる程度で大道具、小道具は最小限である。クライマックスではここに血の雨が降って舞台が真っ赤になる。

 全体的に家父長が支配する家庭における抑圧を描いた作品で、エディがキャサリンに寄せている不健全で虐待的な執念が悲劇を呼ぶという作品である。エディは家長として自分の男性性に強いこだわりを見せているが、エディの力はどんどん衰退し、剥奪されていく。まずはキャサリンが週給50ドル(エディが言っていた週平均30〜40ドルの給与より多い)を得て自立しはじめ、エディがもちあげられない椅子をマルコが持ち上げることで肉体的な敗北も明示される。エディのホモフォビア(若くてハンサムなロドルフォがゲイでないかと疑うところ)も、エディの男性性に対する非理性的な執着を示している。

 この芝居では、男性性への執着がギリシア悲劇的な運命の力というモチーフに結びつけられている。家庭劇なのだが、構成も演出も単純化されており、弁護士のアルフィエーリがコロスの役をつとめる。エディはキャサリンを自分の手元に置いておこうと異常な行動をとるので、ふつうに演じるとただの不気味で抑圧的なアホに見えそうなものだが、マーク・ストロングが極めて人間味のある演技を披露しているので、異常ではあるがある種の尊厳を持った悲劇的人物としてエディが多面的に提示されている。さらにアルフィエーリがコロスとしてしっかり機能しているので、運命の抗いがたい力が前面に出てきて、本当にギリシア悲劇にそっくりである。

 なお、字幕で"punk"がずっと「ホモ」と訳されており、これは明らかに侮蔑として使用されているので侮蔑語が使われているのはいいのだが、訳語としてこれが適切なのはかちょっと疑問があった(ふつうは「チンピラ」とか「不良のクズ」みたいな感じだろう)。まずOEDを見たところ、1940-60年代の用法で"homosexual"っていうのがあり、45年の用例はなんとケルアックである。さらにレビューなどを検索してみたところ、マーティン・ゴットフリートの伝記の中に「この"punk"に"homosexual"の含意があることをミラーは理解しており、ミラーは別の芝居でもその意味で使用していて、イギリスでは上演時に問題になったこともある」というような記述がある。どうやら他にもこのpunkにhomosexualの意味が含まれて使われていることを分析したレビューはあるようなのだが、ちょっとアクセスできないものがあったりして読めなかった。なお、こちらの論文によると"weird"もたぶん"queer"に近い意味だろうということだ。もう少し補足で調査をしたいところだが、伝記の情報が正しいのなら、字幕は解釈としては適当と思われる表現だったということになると思う。