映画は改悪だった?!〜イキウメ『太陽』

 前川知大作・演出、イキウメ『太陽』を世田谷のシアタートラムで見てきた。この間映画版の『太陽』を見てきたばかりである。設定はほぼ映画と同じで、太陽の光に当たることができないが進歩した技術を用いて暮らしている丈夫なノクスと、太陽の下を歩けるが病弱気味で貧しい暮らしをしている旧人類に分かれている。物語もかなりの部分は同じである。

 セットは階段があり、奥の壁に電灯を「太陽」の形に丸くセットした背景がある。階段の上の平たくなっているところには机と椅子があり、ここが夜型と旧人類の間の門になったり、病院になったり、主に夜型が活動するいろいろな場所として使用される。階段には穴があいていたりするのだが、この穴があいた箇所の使い方はなかなかうならされるところがあった。両脇には柱が数本たっている。階段の下は主に旧人類の活動場所である。

 驚いたのは、私が映画でダメだと思ったところが原作である芝居にはほとんどなかったということである。上にリンクした映画レビューで、女性の描き方、とくに性暴力の描き方をかなり強く批判したのだが、この舞台にはそもそも拓海にあたる人物が登場しないので、結が強姦されるという展開が無い。さらに草一はたしかにちょっと精神的に問題を抱えている父親だが、結の入浴中にずかずかやってきて話しかけるというような子どもの意志を全く尊重しない父親ではない。さらに純子は血を吐いて死なないし、克哉はボコボコにされた上ウイルスに感染してかなりエグい死に方をする。これは、男女関係の描き方に関しては映画は改悪ばかりだったと言っていいのではないだろうか…映画は性差別批判をきちんと盛り込もうとして無残に失敗したように思われる。これに比べると芝居のほうはテーマをそこまで広げて散らかさずにうまくまとめており、ずっと完成度が高い感じがした。

 全体として映画は「村社会の因習」にものすごく批判的な目を向けていて、これでもかこれでもかと旧人類の村のイヤなところを描いていたが、芝居は夜型と旧人類をともに欠点がある存在として描いており、さらに映画よりも笑いがふんだんにつめこまれていて、笑えるところと辛辣だったり哀切だったりするところのメリハリがある。とくに森繁が鉄彦に「旧人類を守りたい、旧人類の芸術は素晴らしい」というところはまさに優しいが自分の立場に気付いていない人が陥りやすい、自分が弱いと思った存在を保護して不自然なまでにロマンチックなものとして見てしまう傾向を痛烈にあぶり出している。映画のように鉄彦と森繁が旅立つユートピア的なオチもなく、大人同士の内省的な議論で終わる。ただ、この芝居じたいにも自然や太陽に囲まれた旧人類の暮らしをちょっとロマンチックに見ているところがあり、そこは少し気になった。夜型が子どもを作れなくなってきているが、太陽の下にいる人間たちは子どもを作れる、というのはちょっと自然を崇拝しすぎではと思うし、大人たちの議論がちょっとそういう自然や旧人類を理想化するのにつながりそうな方向に流れて終わるのはあまりよくないかもなーと思った。