エドワーディアンではないショー〜NTライブ『人と超人』(ネタバレあり)

 NTライブの『人と超人』を見てきた。バーナード・ショーの有名な戯曲で、サイモン・ゴドウィン演出、レイフ・ファインズとインディラ・ヴァルマ(『ゲーム・オブ・スローンズ』のエラリア・サンド)主演である。

 基本的には革命思想家で独身主義者の男ジャック(レイフ・ファインズ)が、良家の令嬢であるアン(インディラ・ヴァルマ)の恋の策略にかかって結婚するまでを描く風習喜劇である。ところが途中、第三幕でジャックが地獄でドン・ファン(ジャックはドン・ファンの末裔らしい)になって悪魔などと会話するというニーチェっぽい長い夢のシークエンスが入っており、ここが普通の風習喜劇と大きく異なる。この場面は演出が難しい上、もともと戯曲が長くてものすごい時間がかかるので(カットなしでじっくりやると5時間近くかかるとか)、この第三幕はまるごとカットされることも多いのだが、この上演では第三幕もちゃんとやっている(上演時間は3時間半くらい)。

 基本的に原作のエドワーディアン全開な感じはそれほどなく、要所要所で現代風のセットや小道具を使った演出になっており、それがかなり功を奏していると思った。お屋敷なんかは古いイギリスの家屋風でいかにもショーのお芝居という感じなのだが、携帯電話が出てくるなど、ところどころで現代の小道具がいい仕事をしている。第三幕の、格子をはめた窓のような地獄の夢のセットもいい。

 この芝居が難しいのはおそらくものすごく時代の思想を反映しているというところだと思うが、現代風にすることで時代がかった雰囲気をなくすことに成功している。この芝居の中で披瀝されている思想としては、ニーチェの「超人」の哲学なんかは今でも理解しやすいところがあるものだろうが、進化論や優生学的なものへのこだわりとかは今見るとずいぶん古くさく見えるので、あまり目立たないようにして正解だ。さらに徹頭徹尾エドワーディアンな雰囲気にすると、ヒロインのアンが世紀末的かつステレオタイプな色っぽいファム・ファタルになったり、あるいはいわゆる「永遠の女性」(Eternal Female)とか「原型としての女」(Everywoman)みたいな感じになりかねない。そうやって「これが男女の本能だ」みたいな展開にしてしまうと、人為的、社会的な秩序の中でおもしろいおかしい恋のさや当てが起きるという設定の風習喜劇としては、やたら説教くさくてつまらない話になってしまう可能性が高い。ところがこのプロダクションではあまりアンを「普遍的本能のままに動く女性」みたいには演出しておらず、アンは機知縦横でいろいろ笑いもとれるし、男性中心的な社会システムを利用して男性を出し抜こうとする女性として表現していて、これは現代人にもじゅうぶん理解できるキャラクターだ(アンをサフラジストにするっていう演出もあるらしくて、それもちょっと見てみたいのだが残念なことに未見)。一方でジャックは「女性の意志によって男性が結婚させられる」ということを偏執的に恐れていた結果、予言の自己成就みたいにアンに惚れて結婚にひきずりこまれてしまう男性という役回りで、ドン・ファンの夢のシークエンスはむしろ男性であるジャックの隠れた結婚願望(あるいは生殖への情熱というべきか)を暴いているように見える(ドニャ・アナが最後に「超人を生むための父親を探さないと」というのは、むしろ夢を生みだした本人であるジャックの生殖願望を暗示しているのではと思う)。

 第三幕の哲学的な展開をのぞくと、全体の印象はゴールドスミスの『負けるが勝ち』みたいな、男女関係に関する辛辣な諷刺を含んだ風習喜劇に近い。恋愛を恐れていた男がまんまと恋する女の策略にはまってしまうという展開もそっくりである。ショーもゴールドスミスもアングロアイリッシュの劇作家だしな…