史上最凶のアバにあわせて、階級とジェンダーの闘争を~『ハイ・ライズ』

 ベン・ウィートリー監督『ハイ・ライズ』を見てきた。言わずと知れたJ・G・バラードの有名小説の映画化である。

 原作は高層住宅の上層階と下層階の間で暴力的な闘争が起きるという話で、階級間の衝突をそのまんま表現した寓話なのだが、このわかりやすすぎる比喩のわりにはあまり型にはまっていなくて面白い小説だと思う。映画化のほうもできるだけこの小説をちゃんと映像にしようと頑張っており、野心的だしつまらなくはない。とはいえ、小説に比べて映像にするとなんかダイレクトすぎてピンとこないみたいなところもあり、さらに最後のサッチャーの演説が入るところとかにはやや唐突感があり(まあこれはクリエイターとしては絶対にやらざるを得なかったのだろうが)、そこまでうまくいっているとは言えない気がする。

 ただ、2点すごく面白いと思うところがあった。1点めはアバの使い方である。"SOS"が2回、違うアレンジで流れるのだが、この使い方がかなり凶悪である。最初はクラシックっぽいインストゥルメンタルで、18世紀がテーマの派手な(かつどことなく虚しい)仮装パーティで流れる。2回目はポーティスヘッドのカヴァーで、略奪が起こって荒れ果てたアパートで流れる。もともとアバの曲にあり、キラキラして派手だがなんとなく軽いイメージから一点、"SOS"というのはこんなに暗い歌だったのかということを認識させられるような変化で、かなり面白い音楽の使い方だと思った。

 もうひとつはトム・ヒドルストンが主役のロバートを演じていることで、全体的に階級のみならずジェンダーの闘争という雰囲気が出たことである。トム・ヒドルストンは『ソー』シリーズのロキといい、『コリオレーナス』といい、本来家父長制にビミョーに適応できない性格なのに家父長制を内面化してしまった人みたいなキャラが得意だと思うのだが、この映画でもそういう感じの役になっている。ロバートはひとりでハイ・ライズに引っ越してきた生理学博士で、上の階層と下の階層にはさまれているという点で中間者なのだが、男性性という点でも中間者として描かれているように思う。いきなりほぼ全裸で日光浴して上の階のシャーロット(シエナ・ミラー)に覗かれる場面があったり、ロバートは肉体を鑑賞される美しい男性として登場する。男性が美しいというのは、男性が女性から鑑賞される対象になりうる可能性を示すものであり、女性から見られる存在になることによって伝統的に男性らしくないとされる受動性が賦与される。トム・ヒドルストンの演じる役柄というのはこの自分の美しさのせいで男らしさに傷がつくのではないかと内心恐れてるみたいな雰囲気が常にあると思うのだが、このロバートも実にそういう感じで、美しさと繊細さのせいで男性中心主義的理想像から疎外されている。シャワーを浴びまくったり、やたらペンキ塗りにこだわっているのも見かけを整えることへの強迫観念であり、ある種の男性性からの疎外を暗示するものだと思う。
 一方で伝統的な男性らしさを悪いところも含めてふんだんに持っているのがワイルダー(ルーク・エヴァンズ)であり、こいつは階級社会に対する反逆者で身なりなんかあまり構わない「男らしい」男性である一方、妻を裏切る悪い夫であり、強姦者であり、女に暴力を振るうクズだ。ロバートはワイルダーロボトミー手術を施すよう、上の階層の連中から頼まれるのだが、「ワイルダーは正気すぎる」と言って断る。これはロバートが上の階層と下の階層に板挟みになっていることを示す一方で、ネガティヴな意味での男性性を突き詰めて暴力に突っ走ることができないことをも示している。結局、男性性の負の側面の結晶であるワイルダーは女たちに殺されるのだが、女たちは一応、ビルの設計者で障害のあるロイヤル(ジェレミー・アイアンズ)に属していることになっており、過度な男性的暴力性が別の男性性と女性性の妥協によって抹殺されるみたいなオチになっていると思う。

 なお、この映画がベクデル・テストを満たすかは微妙である。ヘレンの出産場面を「会話」とすればパスすると思うのだが、ヘレンが応答しているとは言えない気もするので難しい。他にも女性同士で話すところはあるのだが、片方が答えなくて動作をするだけだったり、パスと見なせるか判断が困難な場面が多かった。