シアターコクーン『るつぼ』〜歴史的には重要だが、戯曲自体が古くなっていると思う

 シアターコクーンアーサー・ミラーの『るつぼ』を見てきた。演出はジョナサン・マンビィである。言わずと知れた有名作で、1953年に初演された赤狩り批判の芝居だ。

 舞台は17世紀末、マサチューセッツにあるピューリタン的な村セイラムである。主人公であるジョン・プロクター(堤真一)は、貞淑な妻エリザベス(松雪泰子)がいるにもかかわらず、奉公にきていた若い娘アビゲイル(黒木華)と性的関係を持ってしまった。それ以来アビゲイルはジョンに惚れている。そんな中、アビゲイルその他の娘たちがバルバドス出身の奴隷であるティチュバと夜の森で儀式を行い、アビゲイルのいとこでパリス牧師の娘であるベティが病気になってしまう。村人たちの今までの不満や軋轢が表面化して魔法の噂が広がり、魔女狩りが始まる。アビゲイルをはじめとした娘たちは魔女を告発する聖女として扱われるようになり、エリザベスも告発される。ジョンは仲間たちとともにエリザベスを守ろうとするが、結局はジョンが処刑されることになる。

 これ、歴史的に非常に重要な芝居で、1950年代にこういう戯曲を書くことが大変勇気ある行動だったというのはわかるのだが、今見るとミソジニーがひどく、掘り下げも甘い感じで戯曲が古くなっている気がした。このプロダクションについては、ひとりだけ赤いドレスを着たアビゲイルが映える暗いセットとか、役者の演技などは良かったと思うのだが、それでも話にずいぶん広がりがなく、強引だという印象を受けた。

 まず、プロクターが未成年のアビゲイルに手を出さなければこんなことにはならないわけであって、いやそもそもこんなに事態がとんでもないことになったのはお前のせいだろうと思ってしまうところがある。このプロダクションの堤プロクターは完全に良い人として演じられているわけではなく、山ほど欠点のある人間ではあるのだが、それでもちょっと責任感がなさ過ぎではという気がする。さらにアビゲイル自身が実は抑圧的なピューリタン社会の被害者なのに、その行動を相対化したり、のしかかる抑圧を批判するような視点がほぼ無い。セイラムは結婚前に女性が性的関係を結ぶと娼婦として蔑まれ、それによって女性の社会的地位や信頼性(裁判における証言の価値も)が全て失われてしまうような社会である。おそらくこの演出に出てくる黒木華アビゲイルはそういうことをうすうすわかっていて、だから自分の名誉のためにプロクターに執着しているのではと思うところもあるのだが、この女性抑圧の要素がきちんと有機的に展開に取り込まれていない。一方でよき妻エリザベスもかなり薄っぺらに描かれてて、ただ我慢しているだけだし、最後に「自分が冷たい女だからあなたが離れて」みたいな台詞を言うのはあまりに不自然で、プロクターが妻を精神的に追い込んでしまったモラハラ夫にしか見えなくなる。全体的にセイラムは家父長制的な抑圧と腐敗のせいで魔女狩りに突入してしまったように見えるのだが、どういうわけかその腐敗の責任を弱い立場の若い女たちに転嫁しているようで、見ていて物凄く掘り下げが甘い芝居に見える。
 また、構成の緊密さなどのほうもこの間見た『橋からの眺め』のほうが巧みなのではという気がした。とくに『るつぼ』は第一幕終盤あたりで娘たちが人々を告発し始めてから聖女に祭り上げられるあたりの展開がちょっとすっ飛ばし気味というか、いつのまにか話が進んでいて緊密さに欠けるように思う。『橋からの眺め』はものすごく小さい規模の家庭のドラマをギリシャ悲劇みたいなスケール感にまで広げてしまう意外性があったと思うのだが、『るつぼ』は社会に内在するものすごく大きな問題をとらえようとしているわりに、なぜか「若い女が怖い」みたいなところに縮んでいってしまうので、尻すぼみな感じがする。