性革命と第二波フェミニズムの前に〜クルージュ・ナポカマジャール劇場『ヘッダ・ガブラー』

 世田谷シアタートラムでクルージュ・ナポカマジャール劇場、アンドレイ・シェルバン演出『ヘッダ・ガブラー』を見てきた。ルーマニアハンガリー語劇団である。

 『ヘッダ・ガブラー』は今まで英語と日本語で一回ずつ見たことがあるのだが、これが一番面白かった。美術や衣装は19世紀末くらいの建物に1960年代くらいのカップルが住んでいるという雰囲気なのだが(東欧や北欧の事情に通じていないのであまり細かい設定については自信ないのだが)、着ている服とかはオシャレで今でも通用しそうな感じだ。部屋にあるレコードプレイヤーからは『アメリカン・グラフィティ』でかかっているような50年代末頃のアメリカのオールディーズが流れ、ヘッダはマリリン・モンローのレコードをプレゼントにもらう。

 この音楽やマリリン・モンローへの目配せは非常に重要だ。この芝居が初演された19世紀末は女性参政権運動が成果をおさめはじめる少し前の時期で、ヘッダはそうやって女性をめぐる状況が激変する直前に不満をため込みつつ慣習に絡め取られ、情熱を注ぐところを見つけられずに暴発して死んでいく女性である。50年代末頃のオールディーズの音楽を多用し、悲劇的な死を遂げた美女マリリン・モンローのイメージを纏わせることで、このプロダクションにおけるヘッダは冒険への欲求を強く持ち、それを行うだけの知性も持ちながら、60年代の性革命や第二波フェミニズムの恩恵を受けられず、ミドルクラスの伝統に絡め取られた末に性的な搾取を拒んで死を選ぶ女性として描かれている。父の軍装に身を包んで死んでいくヘッダはある意味ではロマン主義的な悲劇の英雄であり、彼女にとっておそらく死は退屈と搾取を出し抜くギリギリの勝利なのだ。

 他のキャストもそれぞれ面白い。テスマンは真面目なおじさまというよりは相当な変人で、やたらカーペットの下にスリッパはいた足を突っ込むのがクセになっていて、かなり優秀かつ奇矯な人だという印象を与えるし、見ていて笑えるところがたくさんある。以前見たオールドヴィックのプロダクションでは、ブラック判事は単に脅迫的というよりもヘッダの精神を全てコントロールしたがっている家父長というような印象があったのだが、こちらのプロダクションのブラック判事はほんとにいやらしく、かつ頭の切れるコミカルなエロじじいだった。また、オールドヴィック版のテアは一見パッとしない見かけに知性と勇気をもって隠している感じで、ヘッダが求めて得られない冒険を実行にうつしている女性として演出されていたと思うのだが、このプロダクションはテアに対して非常に辛辣だ。この上演のテアは善意と愛情をレーヴボルグに搾取され、シャドウワークをさせられている女性で、ヘッダがうらやむようなところはほとんどない。ヘッダがテアに冷たいのはうらやましいからではなく、ああいうふうに男性にいいように利用されるのはみじめだという気持ちがあるからだろうと思う。だからこそ最後にヘッダがブラックの性的搾取を拒否して死んでいくところに説得力が出る。