インターカルチュラルな舞台、はじけるマゾヒズム〜ケルティック能『鷹姫』

 ケルティック能『鷹姫』を見てきた。アイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツが能をもとに作った詩劇『鷹の井戸』を能として上演しやすいよう横道萬里雄が改作したもので、アイルランドと日本の国交60周年を記念する上演である。鷹姫役に梅若玄祥、音楽にはアイルランドからわざわざアヌーナを呼んでいるというたいへんに豪華な上演だった。

 お話はアイルランドの神話を取り入れたものである。美しい鷹姫に守られている不思議な命の泉がある島が舞台で、この泉は普段は水が涸れているのだが魔法の時間だけ命の水が湧いてくる。これを待つ間に年老いてしまった老人がいるのだが、どうやら魔の時間になると水を求める者は魔法の効果で気を失ってしまい、結局水が飲めないということになるらしい。この水の噂をきいたケルト神話の英雄クーフリン(空賦麟)が島にやってきて命の水を求めるが、結局水が湧くとクーフリンは気を失い、鷹姫が水を全て飲んでしまう。老人は絶望し、岩になる。 

 実は私は能を見て全部起きていられたためしが全くなく、今回もクーフリンよろしく途中で5分ほど気を失ってしまったのだが、それでも他のところはちゃんと起きていられて、面白かった。しかしながら大変に不条理な話で、はっきり言ってこういう能とかベケットとかを見て眠くなるのは不条理な人生、生きることの苦痛の再現から逃れたいという深層心理による防衛機制なので当然だと主張したいレベルだ。どんなに頑張っても命の水は得られないし、ひたすら待って年老いていくしかない。絶望の人生の物語である。

 しかしながらこの作品には、ある種のマゾヒズムもあるのかもしれないと思う。鷹姫は美しく、猛禽であり、命の水を守る強力な乙女である。梅若玄祥演じる鷹姫は輝くように美しく上品である一方、鷹らしい動物的な荒々しさと超然とした傲岸さを備えていて、この最強の女性である鷹姫に命の水へのアクセスを阻まれている老人は実はマゾヒズム的な快楽を得ているのかもしれない。こういうのを見ていると、作品を作者の人生に還元するのはあまり好きではないが、どうしてもモード・ゴンのことを思い出してしまう。原作者のイェイツは絶世の美女でアイルランド独立を目指す革命家であり、舞台のパフォーマーでもあったモード・ゴンに熱烈な愛を捧げており、何度も何度も求愛したがそのたびに振られていた。井戸や泉は女性を表す古典的な象徴(女性器に喩えられる)だし、命の水というのは愛する女性に受け入れられることを示すのだろう。そんな命の水を全部自分で飲み干してしまう鷹姫は自足的・自律的なセクシュアリティを持っている女性ということで、ちょっとクィアな存在なのかもしれない。

 全体としてこの舞台はとてもインターカルチュラル(間文化的)な作品だと思った。アイルランドの神話と日本の能がきちんと融合しているし、翻案とはいえイェイツの作家性もよくわかるようになっており、とってつけたような不自然さとか、無理矢理いろいろな文化をごちゃまぜにしたような違和感がなく、ひとつの舞台として面白く見ることができる。原作者も翻案者も、また今回関わったパフォーマーやクリエイターの人たちも皆プロ中のプロであったからこういうことができるのだろうと思う(舞台装置に使われている草月流のお花からアヌーナの歌まで、大変贅沢に才能をつぎ込んだ作品だ)。正直、インターカルチュラルな舞台で成功しているものはあまり多くはないと思うので、こういう作品を見られたのは非常に良かった。