婆・婆・ランド〜『近代能楽集より葵上・卒塔婆小町』

 新国立劇場で、三島由紀夫作、美輪明宏演出・主演の『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を見てきた。一言で言うと「婆・婆・ランド」だった。お婆さんがとんでもなく美しい恋の夢を見せるという作品で、まさに「夢を、見ていた」『ラ・ラ・ランド』みたいだが、私は婆・婆・ランドのほうが好みだ。とにかく圧倒的婆力で、常人は100歳まで生きてもあんな婆にはなれそうもない。

 二作とも能の形式を取り入れた作品で、設定は全て現代化されているのだが、途中で夢まぼろしを見て最後に死が訪れるという展開になっている。背景やセットはきらびやかだがあまり唐突にはならないようなもので、今より少し古い戯曲が書かれた頃の時代に設定されており、演出も含めて原作戯曲の美意識をストレートに見せるような感じだと思った。

 『葵上』は源氏物語光源氏の妻、葵上のところに生き霊となって現れる源氏の元恋人、六条御息所の物語を、入院中の若妻葵、その夫である光、かつての光の恋人である中年の美女、六条の3人の物語に置き換えたものである。コンパクトにまとまった妖艶なホラーという感じなのだが、精神分析とか抑圧された性衝動みたいな話題を取り入れているあたり、むしろちょっと古さを感じてしまった。

 個人的には『卒塔婆小町』が大変面白かった。公園にいるボロボロの服を着た婆さんと詩人が昔話をする。小町こと婆さんは若い頃大変な美人でいろんな男に言い寄られていたが、男が婆さんを美しいと褒めるとなぜか皆死んでしまうという呪いがあるのだという。そんな話をしているうちに婆さんと詩人は鹿鳴館の時代にタイムスリップしてしまい、婆さんが輝くばかりに美しい娘になって登場。深草の役回りになった詩人は小町に対して、今日が小町のところに通い始めて100日目なので、約束通り思いを叶えてほしいと頼む。小町はこれに応じるが、詩人/深草は感極まって小町の美を褒め始め、死んでしまう。小町は幸せになれなかったことを嘆き、現代に戻るが、また婆さんになった小町に別の男が話しかけてきて、おそらく同じことが起こることが暗示される。
 この小町婆さんは、劇中で自分は若い頃あまりにも綺麗だったせいで、年を取って醜くなっても美人以外にはなれなくなったのだ、というのだが、これは大変面白いというか、美の社会性と内面性が複雑に絡み合った台詞に聞こえる。そして美輪さん演じる小町婆さんが美しい娘になって戻ってくる場面は圧巻で、小町の美しさというのはおそらく容姿ではなく、他の世界を見せることができる芸術的な力、才能によるものなんだろうな…と思わせるところがある。小町は芸術家を象徴するものとも言えるかもしれない。詩人も芸術家だが、小町の作る美の世界に対抗できなかった。
 『卒塔婆小町』の、幸福が手に入りそうになったところで逃げていくという展開が永劫に続く、みたいなモチーフは、この間見たイェーツの『鷹姫』にもあったもので、たぶん能の哲学のひとつなのだろうな…と思う。そしてイェーツとレディ・グレゴリーが書いた芝居『キャスリーン・ニ・フーリハン』はけっこうこの『卒塔婆小町』に似ているのではと思ったので、むしろ『キャスリーン・ニ・フーリハン』を『卒塔婆小町』と一緒に美輪さん主演でやったらいいんじゃないかと思った。イェーツも三島も右翼だし、婆さんが美女になる話だ。