ジャッキーをマリリンにする〜世界とベッドの境界、『ジャッキー』の不在の中心

 パブロ・ラライン監督、ナタリー・ポートマン主演『ジャッキー』を見てきた。ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された前後の数日を中心に、ファースト・レディだったジャクリーン・ケネディを描く歴史ものである。

 全体的に撮り方はわりと実験的な感じで、クロースアップや変わった角度からの撮影を多用している。手持ちで撮ったところもあるのだがこの効果はけっこう疑問で、じっくり表情をとらえたところでも微妙にブレたりするのでちょっと煩わしい。この不安定な撮り方はちょっと『ムーンライト』なんかにも似ている気がするので、最近のアートハウス映画の流行なんだろうか。時系列はかなり乱してあり、ジャッキーがジャーナリストに過去を回想するという枠がある。
 
 とにかくナタリー・ポートマンの演技が凄く、公的責務と家庭人としての情愛両方を抱え、夫の死を嘆きつつ立派に国葬を執り行おうとする女性の内面を毅然とした様子で、かつ人間味をもって丁寧に表現していると思う(アカデミー賞エマ・ストーンに負けたのがちょっと信じられないレベルだ)。アシスタントのナンシー(グレタ・ガーウィグ)との友情などもきちんと描かれており、ナンシーやレディ・バード・ジョンソンとの会話でベクデル・テストはクリアする。時代考証もしっかりしており、言葉使いからファッションまで非常に60年代初頭らしい雰囲気が再現されている。ジャッキー・ケネディは所謂ミッドアトランティックアクセント(20世紀前半頃にアメリカの富裕層が話していたすごく人工的で、今からすると大仰に聞こえる英語のアクセント、去年『キャロル』でケイト・ブランシェットが話していた)で話していたらしいのだが、ナタリー・ポートマンはジャッキーの話し方をすごくちゃんと真似ている。

 この映画を見て思ったのは、この作品において補助線として大事なのは、実は一切登場しないマリリン・モンローなんじゃないのか…ということである。ジョン・F・ケネディマリリン・モンローと不倫してたというのは有名な話で、マリリンは50年代から60年代初め頃までの、ファッショナブルでセクシーでグラマラスな女性を代表するアイコニックな存在だ。マリリン・モンローはバカなブロンドのセックスシンボルとして扱われることが多く、薄っぺらに理解されることも多かったが、一方でだんだん彼女の傷つきやすさ、才能、男性中心的な社会で彼女なりにタフに生き抜こうとしていたことなど、業績と人生について深い分析をしようとする動きが出てきた。この映画はジョン・F・ケネディの妻でファッションアイコンであったジャッキーについて、マリリンのパブリックイメージが経てきたのと同じより深い考察をしようとしている作品なのではと思う。マリリンがこの時代のアメリカの派手なショービジネスを象徴するとしたら、ジャッキーはエリートの世界を象徴する女性だろうと思うのだが、女性を単純化して二つに分けるステレオタイプな言い方で言えば、マリリンが男性の求める娼婦的女性像、バカなブロンド女性であり、ジャッキーが妻・母親という家庭的女性像、賢いブルネット女性を代表する存在になるだろう。しかしながら2人ともファッションアイコンであり、同じ男性であるジョン・F・ケネディと関わり、そしてひとりの人間であった。マリリンのパブリックイメージは幻想のセックスシンボルからだんだん深みのある人間になっていったと言えるだろうが、ジャッキーについてもそれを行おうとしたのがこの映画なんじゃないだろうか。マリリンはこの映画の不在の中心かもしれない。

 こういうことを思ったのは、この映画でジャッキーが子どもたちのため、やたら大仰なアクセントで「ハッピー・バースデイ」を歌う場面があったからである。マリリン・モンローケネディのために「ハッピー・バースデイ」を歌う動画は有名だが、あの場面はこのマリリンのハッピー・バースデイを意識しているんじゃないかと思う。マリリンは大統領のために歌ったが、ジャッキーは家庭人として子どものためにハッピー・バースデイを歌う。一方でジャッキーはこの映画の中で、神父に対して「世の中には世界で権力を求める女とベッドで権力を求める女、二種類の女がいる」と述べるが、セックスシンボルとしてハリウッドでスターになったマリリンと、結婚によって公的存在となってしまったジャッキーは2人とも、実はこの世界とベッドの境界を曖昧にしている存在だ。この世界とベッドという対立しているようで境界が曖昧なものに関する表現は「個人的なことは政治的である」というフェミニズムのテーマとも響き合うものなのかもしれないのだが、一方であれよあれよという間に大統領夫人になり、夫の暗殺を経験したジャッキーにはおそらくベッドと世界の境界を曖昧にするという以外の選択肢が許されていなかった。これはジャッキーの人生特有の問題である一方、時代の制約でもあったのだろうと思う。