文化的な遺産とアイデンティティを探して〜『LION/ライオン 〜25年目のただいま〜』

 『LION/ライオン 〜25年目のただいま〜』を見てきた。5歳の時にインドで迷子になり、オーストラリアのタスマニアに住むブライアリー夫婦に引き取られたサルー(デヴ・パテル)がグーグル・アースを使って故郷を探し出し、インドの母に再会するまでを描いた作品である。

 とにかく時系列を一切いじくらない、直線的でシンプルな作りなのがかえって効果を発揮している。これ、最近のよくあるアメリカ映画なら、大人になったサルーが過去のフラッシュバックに悩みはじめるところとかから始まりそうなものだが、この映画はそういうことをほとんどせず(フラッシュバックはあるが、サルーの記憶や想像を示すためのもの)、たまたま迷子になってしまった子どものサルーの苦難から丁寧に描き始めることで、観客が自然とサルーを好きになるようにしている。おそらく大人になってからのサルーの話からはじめると、ハンサムで何不自由ない暮らしをしている青年がひどく暗い顔で悩んで育ての親や優しいガールフレンドに不機嫌な態度をとるところから始まるのでなかなか主人公が好きになれないだろうと思うのだが、こういうふうにこれでもかというほどつらいめにあう子ども時代を先に描くことで、「この可愛い子があんな立派な大人に」「子ども時代にあんなにつらいめにあってきたんだから大人になって昔のことで悩むのもしょうがない」みたいに観客を誘導する効果がある。

 全体としては淡々とした地味な展開で人の心境をじっくり描いていくもので、見応えがある。生みの母を探していることをなかなか養親に打ち明けられずうじうじするところとかなんかはとてもリアルである。サルーの弟でやはり養子としてインドからやってきたマントッシュは精神が不安定で母を困らせているとか、養子縁組について美化せず、血縁がある子どもを育てている家庭とたいして変わらないような幸せと困難両方を抱えた家庭として提示しているところが良い。主演のパテル、オーストラリアの母スーを演じるニコール・キッドマンの演技は素晴らしいし、また子どものサルーを演じる子役サニー・パワールがとても上手だ。一方でルーニー・マーラ演じるルーシー役はあまり深められておらず、急にタスマニアに引っ越したりしていてどういう人なのかイマイチわからないところがあった。スーとルーシーが話すところはあるのだが、ほとんどサルーやマントッシュのことで、ベクデル・テストはパスしないと思う。
 
 とても面白いと思ったのは、タスマニアで育っていたサルーがメルボルンに出て、南アジア出身者を含む民族的に多様な学生たちと出会ってから自分のルーツを気にするようになるという展開である。ブライアリー夫妻は立派な養親だったが、おそらくとても手のかかる子だったマントッシュを含めて2人の子どもを育て上げるのに手一杯で、どうもサルーのカレーの食べ方からしてインドの文化を子どもたちに教えようということはあまり考えていなかったようだ。またタスマニアはもともと白人が多い地域で(植民地化で現地住民が絶滅に近い状態に追い込まれたというひどく残虐な歴史がある)、ホバートも州都とはいえ人口が20万人ちょっとなので、ブライアリー夫妻のように海辺でそこまで人口が多くなさそうな地域に住んでいればあんまり南アジア系の人と親しく付き合う機会もなかったのではないかと思われる。ところがメルボルンはオーストラリアの中でも大都市で非常に南アジア系が多く、民族的に多様だし、留学生にも人気がある街だ。そうした世界で自分がインド系だということを認識してからサルーが故郷を探し始めるということは、今までは意識していなかった自分の祖先の文化やアイデンティティにサルーが関心を持ち始めたということなんだろうと思う。こういう意識は悪いほうに働くこともあるが(養親を否定するとか)、サルーの場合は悩んだ末に育ての親と産みの親両方を愛し、尊敬して暮らすことができるようになり、とても良い結末を迎えることができた。最近は、民族の違う子どもを養子に迎える時はできるだけその子の祖先の文化についても理解できるよう教育をしましょうというような動きがあるのだが、この映画を見て、あらためてそういうことは大事なのだろうなと思った。サルーがうまくカレーを食べられない場面は、一応ジョークになっているが、よく考えると切ない場面で、サルーはそういう切なさからの解放を求めていたんじゃないかなと思う。