ヨーロッパ怖いからおうち帰る!Brexit映画としての『ダンケルク』

 クリス・ノーランの新作『ダンケルク』を見てきた。

 1940年、ダンケルクにおけるイギリス軍の撤退を描いた作品である。大変凝った構造の作品で、映画の尺全部を通して3つの話がだいたい同じバランスで描かれるのだが、この3つのお話のタイムスパンが全部違う。ひとつめのお話は撤退を行っている浜辺(防波堤)を描くもので、これはボルトン中佐(ケネス・ブラナー)の指揮による撤退開始からイギリス軍の大部分が逃げるまでの1週間くらいを描いている。ふたつめのお話はイギリスの民間船にダンケルクでの救出要請が出て、ドーセットのウェイマスで小型船の操業をやっているドーソンさん(マーク・ライランス)が海をわたってイギリス兵を救出し(途中で明らかにPTSDになっている名前不明の兵士キリアン・マーフィを拾ったりする)、イギリスに戻るまでを描いていて、この部分は救出作戦終盤の一日二日くらいのタイムスパンだ。さらに空の話があり、これはパイロットのファリア(トム・ハーディ)がダンケルクで空から襲ってくるドイツ軍と空中戦をし、最後は燃料切れでダンケルクに降りるまでの様子を描いていて、ほんの数時間のスパンである。1時間45分くらいの映画で、これを全部並行させて同じバランスで描いている。手法としては、いくつかの時間の層があって全部時間の流れ方が違う『インセプション』にそっくりである。

 基本的に主役がいない群像劇なのだが、目立たせたいところだけ演技ができるスターを配置するというふうになっている。ただしスターを使ってもけっこうみんなオーラを消した撮り方になっており、ボルトン中佐やドーソンさん、名前不明の兵士は非常にさらっと出てくる(1Dのハリー・スタイルズもちょっと出てるのだが、これも実にフツーの人っぽく出てくる)。一方でトム・ハーディ演じるファリアだけは、パイロット用装備でほとんど顔も見えないし、ひとりで操縦してるだけなのに明らかにヒーローっぽい。既にハーディはノーランの映画『ダークナイト・ライジング』で顔がほとんど見えない役をやっており、さらに『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』ではひたすら車を運転しながら電話するだけの役で一人芝居をやっていて、似たようなきつい役柄をきちんとこなした経験がある。おそらくパイロットのエピソードだけは一人で顔も見えずに乗り物に乗ってるだけでも華のある役者を雇いたかったのだろうと思う。まあたぶんそれも無理のないことで、ノーランはアクションを撮るのはうまくないし(パイロットの話はけっこう編集がぎごちなくて起こっていることが一番わかりづらい)、飛行機が飛んでるだけだと得意の1枚絵的な美しいショットも作りづらいので、たぶんカリスマ性のある役者をキャスティングしないと保たないと思ったんだろう。

 全体としては、私にはどう見てもBrexitの話としか思えなかった。既にイギリスではいろんなところで「これBrexitの話じゃない?」ということがレビューで言われているのだが、私もそうだと思う。第二次世界大戦の史実を描いた作品ではあるのだが、全編が「ヨーロッパは怖いからおうちに帰りたい」というイギリス兵の感情で支配されている。しかもその「おうち」(home)がほとんど物理的な実体を伴わない抽象的な概念みたいに描かれている。例えばエドガー・ライトが描くおうちとしてのイギリスにはパブやビールがあって恋人がいるとかいうようなディテールがあるのだが、『ダンケルク』における「おうち」は全くそういう家族とか故郷を思い出させるモノと結びついてない。たいていの戦争映画だと、兵士が帰って恋人とか両親に会いたいとか、地元のパブでビールを飲んだり、家族や友人とお茶を飲んだりしたいとかいうようなことを話したりする若干センチメンタルな描写があると思うのだが、『ダンケルク』はモノによって感情を想起させる、ある意味で偶像崇拝的な描写を一切拒否している。一方でダンケルクから故郷のブリテン島が見えそうだという話は何度か出てくるのだが、この映画における「おうち」というのは「見る」というダイレクトな感覚の使い方によってのみ感知される一方、具体的なモノの記憶とは結びついていないふしぎな故郷である(そういう意味ではこの映画、偶像崇拝を拒否してダイレクトに対象とつながり救済されることを目指すプロテスタント的な映画なのかもしれない)。途中で何度も船を沈められる連隊がハイランドの連隊だというのも象徴的で、彼らはスコットランドの北のほうから来たのではないかと推測されるため、実は彼らにはダンケルクから「おうち」は見えていない(見えているのはイングランドの南端であって、スコットランドは見えていない)。それでもおうちが見える、おうちに帰りたい、と考えるハイランド連隊の人々の姿が描かれているところは、まあひょっとするとBrexitの中でイギリスを出てヨーロッパに付きたいと思っているスコットランドの人たちに対する「おうちはここでしょ」という軽い目配せなのかもしれない。

 他にもいくつかポイントはあり、例えばやたら船に水が入ってくる場面が描かれるが、『インセプション』でも『インターステラー』でも重力をいじるところがあったので、おそらくノーランは天地無用状態の絵が好きなんだろうと思う。冒頭部分のちょっとだけ市街戦をするところの撮り方は『ベルファスト71』にちょっと似ている(キャストも少しかぶっているそうだ)。なお、女性はほとんど出てこなくて、看護師が数名と船で救出にしたおばちゃんたちがちょっと映る程度なので、ベクデル・テストはパスしない(そもそもこの映画、男性の兵士についてもけっこう名前がわからない人がいる)。