政治的な敵が見えない、実存遊園地〜シルヴィウ・プルカレーテ演出『リチャード三世』

 東京芸術劇場でシルヴィウ・プルカレーテ演出『リチャード三世』を見てきた。

 いかにもヨーロッパ的なヴィジュアルと演出で、基本的に全部ブラックボックス…というか、血だか泥だかわからないような飛沫がいっぱいついた石の壁を模した布で覆われた四角い箱で話が展開する。中央に上から大きな電灯が下がっており、ここだけ光で緑っぽくなっている。背景の布を上げたり下げたりすることでちょっとした場面展開を行うこともあり、また金属の錆びた棚みたいなコンテナやら、浴槽やら、テーブルやら、いろんな道具類の出し入れもあり、場面によっては悪夢の遊園地みたいに見える。終盤ではプロジェクションもある。キャスティングはほぼオールメールで、女優も少しだけ出るのだが、このへんのジェンダーのチョイスはどういう意味があるのかあまりよくわからなかった。

 とりあえずこの『リチャード三世』は全く政治劇ではないと思う。かつてのルーマニアの抑圧的な社会状況が反映されているのかもと思うところはないわけではないのだが、リッチモンドもスタンリーも舞台上に肉体を持つ人物として出てこないので(リッチモンドは映像が出るものの、この映像の使い方は全然ダメだと思った)、クライマックスで起こる政治的な権力闘争がほとんど全部排除されている。リッチモンドが出てこなくなると、エリザベス王妃がリチャードにいい顔をする一方でこっそり娘のエリザベス王女をリッチモンドと結婚させてたという展開もわからなくなるので結婚政策に関する展開は効いてこなくなるし、戦争も無い。敵が肉体として可視化されてないというのは重要で、リチャードは何と戦っているのか…というと、むしろ狂気と戦ってるように見える。

 基本的にこの芝居は、抑圧された社会においていろいろな鬱屈を抱えている末っ子が家族を皆殺しにするが、最後はひとりになって自殺してしまう…という、家庭内におけるリチャード(佐々木蔵之介)の実存的な問題とか狂気を描いた舞台だと思う。佐々木リチャードは良くなったり悪くなったりする障害を抱えている精神不安定な青年で、ピエロの格好をしておどけるなど意識的なフリークショーみたいなパフォーマンスをするのだが、全然陽気とは言えない。さらにこの演出のリチャードはバッキンガム(山中崇)にキスする場面があり、さらに最後の亡霊たちが夢にあらわれる場面でも2人がやたら親しく、リチャードは抑圧された同性愛者に見える(旧東欧の政治家同士がキスしたりするのは習慣らしいが、亡霊の場面はそれ以上のものを示唆してると思う)。このあらゆる鬱屈が詰め込まれた狂気のリチャードをひとりで演じた佐々木蔵之介はすごいと思うし、演技にはやはり人を惹きつけるものがある。

 とはいえ、女性の役割を非常に小さくしていたり、政治闘争の要素をカットしていたりするところはあまり良くないと思った。それから木下順二の台本は、私は初めてこのバージョンでの上演を見たがあんまり良くないんじゃないかと思った…ばっさりカットしてるからというのもあるのかもしれないが、言葉の流れがずいぶん滑らかさに欠けると思う箇所がけっこうあった。それから終盤、オフの声が聞こえてくるところで部分的に突然音響が悪くなるのはどうにかしてほしいし、プロジェクションの使い方もあんまり上手とは言えない気がした。かなり役者の身体に頼っているぶん、リチャードが孤独になっていく終盤でのメディア技術の使い方が洗練されてない印象を受ける。