パフォーマンスは面白いが、タイトルは全く機能してない〜『アイ・アム・ノット・フェミニスト』

 フェスティバル/トーキョー17の一環としてゲーテ・インスティテュートで行われた遠藤麻衣の展示とパフォーマンス『アイ・アム・ノット・フェミニスト』を見てきた。

 パフォーマンスとしては実際に遠藤とパートナーの村山悟郎が屋上でニセ婚姻儀礼(mock marriage ritual)みたいなものを行うというもので、それに映像や絵などを組み合わせた展示がついている。この儀礼では結婚のための契約書が読み上げられるのだが、そこでは結婚については契約満了のたびごとに毎回更新を行い、その際に互いの姓を変えるとか、共有財産として作物を育てて人に配るとか、いろいろ結婚に関する義務や責任を可視化するような内容が書かれている。取り組みは真面目だがけっこう肩の力を抜いて見られるパフォーマンスで、ユーモアを持って婚姻を風刺してているところは面白かった。婚姻儀礼の祝祭的かつはちゃめちゃな模倣という点では中世ヨーロッパの無礼講の祭(misrule)なんかを思い出すとこもある。ラップや映像作品のほうの演技が非常に稚拙なのはたぶんある程度こういう祝祭的雰囲気を作る意図によるものだと思うのだが、ただちょっとヘタすぎだろうと思うところもないわけではなかった。

 ただ、タイトルははっきり言ってまったく機能してないと思った。アーティストが儀礼中に言っていた式辞によると、事実婚を選ぶくらい自分で何でも決められるわけではないのでこういう作品を作ろうと思った…というようなことが述べられており、そういう点ではわりと『バッド・フェミニスト』とかにも近いような、全ての点で完璧とはいえないがフェミニズムを指向するっていうのがポイントなのかなーとも思う。しかしながら、たぶんこのタイトルではそれはうまく伝わらないと思う。インタビュー記事では、アーティストの遠藤が自分の前作が『アイ・アム・フェミニスト』というタイトルだったことに触れ、今回のタイトルについて「「みんな同じ主張をしはじめる」ということには少し抵抗感があって「ノット」を付けた」が、「フェミニストをディスってるわけじゃない」もので、「パロディ」だと述べている。しかしながら日本の芸術界でのフェミニズム理解なんてほぼゼロで、皆が同じことを言い始めるなんてレベルにはとても達してないことを考えると、このタイトルは全くパロディとしては機能しない。さらに、「皆が同じことを言い始めるからなんとなくいやだ」というのでは確固たるコンセプトにならない。何がダメなのかとかを明確にしないと、それはただ流行に乗りたくないというある意味で陳腐な精神の発露にしかならない。
 さらに展示解説のリーフレットについてきたドラマトゥルクの説明が良くない。このタイトルについて「勝手に定義付けを始められてしまうことの危険性を示しているのではないか」ということを指摘しているのだが、「定義付けが嫌いだから私はフェミニストではない」なんていうのは使い古されたロジックで、どこに問題があるかなんていうのはさんざん批判されてきている。古くさいクリシェをさもアーティスティックであるかのように持ち出してくるのは作品理解の可能性を狭めるもので、解説として非常によろしくない。