変幻するアイデンティティ、不滅の芸術〜『オーランドー』

 東京芸術劇場で『オーランドー』を見てきた。言わずと知れたヴァージニア・ウルフの有名小説の舞台化で、白井晃演出。

 舞台の両端に生演奏のミュージシャンを配し、セットは比較的簡易なもので背景はプロジェクションで変化をつけている。6人の役者でとっかえひっかえいろんな役をやりながらエリザベス朝から21世紀までのオーランドーの人生を描くというものである。さすがに出ずっぱりのオーランドーを演じる多部未華子は一役しかやっていないが、途中で男から女に変わる。他のキャストは全員複数の役を演じている。

 美少年から女性に変わるオーランドーを演じる多部未華子は非常に適役で、年齢や性別、時代精神に応じて変化しつつ、芸術への情熱という一点においては一貫性があり、変幻しつつもある意味ではずっと「同じ人間」でもあるオーランドーを生き生きと演じている。オーランドーは時代の精神に影響を受けて結婚を考えたり、抑圧に苦しんだりもするのだが、男性から女性に変わることでいろいろなものの見方を身につけて成長もしていく。

 とくに面白いと思ったのはエリザベス一世とオーランドーの関係だ。この舞台のオーランドーは、少年時代に出会った時にはエリザベス一世のことをよく理解しておらず、年上のえらい人くらいの意識しかない。しかしながらエリザベス一世はオーランドーが性転換する以前からある意味で両性具有的な人間であり、「国王」として周りの男性になめられないよう、伝統的には男性がするとされている仕事をつとめるため努力していた女性だ。途中でエリザベス一世が「国王」たることの責務についてのスピーチを練習するところがあるが、この場面はエリザベスがある意味では性別を超えたふるまいをする人間であることを示唆している。そんなエリザベスのことをオーランドーが理解できるようになるのは中年の女性になってからで、オーランドーが幻想のエリザベス一世に相談をする場面は、お互い稀な経験をした両性具有的側面を持つ女性としてオーランドーがやっとエリザベス一世と連帯できるようになったことを示唆していると思う。小日向文世が演じるエリザベス一世は面白おかしいのに威厳があって非常に巧みに演じられているのだが、小日向文世が演じるもう一つの大きな役であるシェルマーダインも両性具有的な側面を持つ人物である。

 この上演は最近の舞台の中ではプロジェクションを効果的に使っていた。カシの木を基調としたプロジェクションの背景が前方で動く人々のスポットとあまり邪魔し合わないよう、役者の位置や光の具合がかなりうまく計算されている。終盤でオーランドーが長年、放置していたカシの木の詩に取り組むところでたくさんの言葉がプロジェクションでカシの木を通り過ぎるところは大変美しく、人々のアイデンティティや時代の精神が変わっても不滅である芸術の力を感じさせる。