漲る帝国主義!回るセクシュアリティ!〜『クラウドナイン』(ネタバレあり)

 木野花演出、キャリル・チャーチル作『クラウドナイン』を見てきた。この演目を見るのは始めてである。とにかく面白く、力のある戯曲でビックリした。

 第一幕はヴィクトリア朝のアフリカに住んでいる植民地官僚クライヴ(郄嶋政宏)の一家の物語である。クライヴと貞淑で従順な妻ベティ(三浦貴大)は一見、帝国主義の理想のために生きる模範的な夫婦のように見える。ところがクライヴは治安が悪化している地域から避難してきた寡婦で自立した強い性格のソーンダース夫人(伊勢志摩)と不倫関係に陥っており、一方で妻ベティは訪問してきた冒険家ハリー(入江雅人)に熱をあげている。ところがハリーは実はクローゼットな同性愛者で、クライヴに仕えている黒人の召使ジョシュア(正名僕蔵)やクライヴとベティの息子でまだ十代の少年であるエドワード(平岩紙)と性的関係を持っている。エドワードの家庭教師であるエレン(石橋けい)はレズビアンでベティに片思いしている。ベティの母モード(宍戸美和公)は孫娘のヴィッキー(人形)の面倒をよく見ているが、娘にヴィクトリア朝風な価値観を押しつけるところがある。ハリーとエレンがゲイとレズビアン同士で世間体のために結婚するところで第一幕が終わる。

 第二幕は1970年代末のロンドンだが、登場人物は25歳くらいしか年をとっておらず、第一幕とは別の役者が演じる。ベティ(伊勢志摩)は夫と離婚し、息子のエドワード(郄嶋政宏)はゲイで、ワイルドな色男ジェリー(三浦貴大)と付き合っているがなかなかうまくいかない。大人になったヴィッキー(石橋けい)はマーティン(入江雅人)と結婚して息子トミー(宍戸美和公)をもうけているが、夫とうまくいかず、レズビアンのシングルマザーで一人娘のキャシー(正名僕蔵)を育てているリン(平岩紙)と一緒に暮らしはじめる。

 第一幕ではヴィクトリア朝的な帝国主義セクシュアリティの抑圧と重ねられている。女王陛下のために未知の土地をさぐる冒険家であるハリーが植民地出身の召使や子どもを性的欲望のはけ口にしているというのは、帝国主義による植民地支配のメタファーだろうと思う。面白いのはジョシュアは見た目は非常に白人に忠実な黒人であり(ブラックフェイスで演じられる)、エドワードはハリーからの性的虐待を自分のゲイアイデンティティに対する福音だと思い込んでいることだ。植民地支配というのは一見、幸福の皮を被ってやってくることもある。ハリーによる性的支配は、そうした一見強制とか暴力には見えない支配が実はそれを受けた人の心を蝕み得ることを暗示していると思う。貞淑な妻を女の鑑と思って理想を押しつける一方、強烈な性格のソーンダース夫人(伊勢志摩が凄い迫力である)に魅惑されており、自分は不倫をしているくせに同性愛を断罪するクライヴは、ヴィクトリア朝ダブルスタンダードを体現するような存在だ。
 第二幕になると性的な抑圧が非常に薄れてきており、だいぶ軽やかな印象を与える。第一幕ではとことん抑圧されていたベティの解放も描かれている。役者が性別や年齢が第一幕と全く違う役を演じることで、いろいろな効果が出てくる。クライヴ役だった役者がエドワードを演じることで、見た目は父親にそっくりなエドワードが全く父親とは違う性格の男性になったことがわかる。また、第一幕のエレンはベティ同様ひどく抑圧されていて、ハリーと違ってレズビアンという性的指向があることすら認められていなかったのだが、第二幕ではエレンを演じていた役者がヘテロセクシュアルな結婚から出て階級の違う女性リンと幸せな関係を築こうとするヴィッキーを演じるので、女性のセクシュアリティヴィクトリア朝に比べると非常に解放的になったことが示唆されていると思う。ヴィッキーがヴィクトリア女王と同じ名前であることを考えるとさらに皮肉な色合いが増す。

 この上演の特徴は舞台の真ん中に非常に長く使える客席に張り出したスラストがついていることで、スラストの両脇にも客席が配置されている(私はスラストの脇の席だった)。役者陣がスラストに出てくると親密感が増し、とくにクライヴがピクニックの前にしつこくソーンダース夫人に迫るところをスラストでやるのは滑稽さも増してよかった。第二幕ではスラストの縁が公園の池の縁に見立てられ、子どもたちがそこで石などを投げて遊ぶのがなかなか面白かった。全体的に笑うところも多く、とくに第二幕のトミーとキャシーの過活動な子どもっぷりは、大人が演じているというのもあって非常に誇張されており、笑えた。