今回の連載は「あなたに文学が何だか決める権利はない――福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」批判」です

 wezzyの今回の連載記事は「あなたに文学が何だか決める権利はない――福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」批判 」です。これは私がふだんからすごくイヤだなと思っていたこと、つまり文芸批評界隈に蔓延する近代小説中心主義と男性中心主義について書いたもので、複数の論考の古典軽視、非小説ジャンルの軽視、歴史軽視を問題にするものです。

 

 文学の定義に関する議論なのですが、私の論考では完全にシンプルに「主に言語を用いる芸術」と定義しています。「主に」としたのは、演劇とか絵本とかは、かなりの部分が言語であっても、言語でない表現手段が入ってくるからです。

 

 なお、これを書いていて思ったのですが、この論考はかなり自分でも不思議な内容だと思う…というか、古典をきちんと評価し、文学の可能性を信じようというある意味では超オールドスクールなことをしているにもかかわらず、理論的にはポストモダンというか、静的な区切りなどを拒否する方向性です。ただ、自分としては常にここで書いたようなこと、つまり記述的な態度をとればかなりいろんなものが文学を名乗っていて文学として研究されているのは自明なんだし、「こんなのは文学じゃない」などとは言ってはいけないということを信じて研究や批評をしてきたので、不思議に見えたとしてもこれは全部私が普段から考えて納得していることです(年間百本芝居を見ていると、たまにとんでもなく演技などが崩壊したのにあたって「こんなん芝居じゃない!金払ってコピー室のゴミ箱でも見てたほうがまだマシ!」のような暴言を吐くこともないわけではないのですが…)。