野心的だが、こういう見せ方でいいんだろうか?『華氏451度』

 KAAT神奈川芸術劇場で『華氏451度』を見てきた。言わずと知れたブラッドベリの有名SFの舞台化で、本が禁止された世界で焚書を行う「ファイアマン」という仕事をしているモンターグ(吉沢悠)が、検閲に疑問を抱くようになる過程を描いている。長塚圭氏台本、白井晃演出である。

 

 とても野心的で、かつ現在の世界に直接つながるテーマを扱った舞台だとは思う。焚書の炎をプロジェクションにするなどの視覚効果の使い方は上手だし、iPhoneやフラットスクリーンの時代にあわせた演出にしているあたりも工夫がある。のだが、私はちょっとヴィジュアルになじめなかったというか、けっこうはっきりこの見せ方だとテーマに合わないんじゃないか…と思った。

 

 ひっかかったのは本の見せ方だ。舞台は三方が本棚になっていて、本がびっしり入っているのだが、この入っている本は全部、白い背表紙で中も白紙だ。この本は冒頭からバラバラと舞台内にバラ撒かれたり、登場人物が拾って読んだり、いろいろなことに使うのだが、そのたびに中に何も書かれていない白いのっぺらぼうの本が見える。私はこれがどうも個人的に受け入れられなかった。『華氏451度』は、モノとしての本が燃やされてしまうような状況の中、抽象的に存在するテクストを記憶によって守ろうとする人々がいる、という話だと思う。このため、最初に出てくる本はタイトルや文字が書いてあって、人が使い古した形跡があるいかにも物理的な物体らしい本にしたほうがいいと思うのだが、最初から本が真っ白だと書籍のモノらしさが全くなく、全てが抽象化されたテクストに見える。真っ白のほうがプロジェクションが映えるとか、小道具として使いやすいとか、いろいろ利点があるのはわかるのだが、本のフェティッシュとしての側面が全然なくなっている演出で、私はどうも魅力があると思えなかった。もちろん白紙にすることに意味をこめていることはわかるし、これを評価する人もいるとは思うが、私の趣味ではない。

 

 あと、『華氏451度』の原作には、妻たちの描写などにけっこうミソジニーがあると思うのだが、この舞台ではけっこうそれをそのまんま引き継いでしまっていると思った。同じくディストピアSFである『1984』は、けっこうミソジニー的な原作をうまく現代的にして女性に厚みを与えていたと思うので、そこはちょっと残念だ。