やっぱりいなかったのかもしれないね~『豊饒の海』における美しい空隙、東出昌大

 紀伊國屋サザンシアターで『豊饒の海』を見てきた。三島由紀夫の大長編小説の舞台化で、長田育恵脚色、マックス・ウェブスター演出である。

 

 『豊饒の海』は四世代にわたる輪廻転生を主題としており、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四巻からなっていて、多数の人物が登場する壮大な物語である。一部舞台がタイになるし、とにかく舞台化しやすい話ではないのでかなり心配していた…のだが、思ったよりずいぶんすっきりとした話になっていて感心した。四巻を時系列順にやるのではなく、前半は『春の雪』『奔馬』『天人五衰』が並行して展開し、後半になってやっと『暁の寺』が入ってきて、全体にたるくならないように配慮されている。かなりばっさり削っているのだが、とくに『奔馬』の中に組み込まれている大部な作品中作品である『神風連史記』(名前は出てくるのだが)の内容と、『暁の寺』のタイで展開する部分などが全部カットされている(芝居では日本でジン・ジャンと本多が初めて会ったことになっているが、原作ではその前に本多が一度タイに行っている)。本多は年齢に応じて3人の役者(笈田ヨシ首藤康之大鶴佐助)がそれぞれ別々に演じる。

 

 全体的にものすごくわかりやすく、単純に話として面白くなっているように思ったのだが、たぶん『神風連史記』が全カットなのが大きいと思う。原作の『神風連史記』は、私の考えでは面白くないこと甚だしく、そしてそのつまらなさがこの小説における右翼思想の働きを考える上で重要だと思うのだが(著者の三島の意図としてはすごく大事なことを書いているつもりだったのかもしれないが、それでも結局すごくつまらないというのが全体の構成上重要なんだと思う)、芝居にする時はこの手の作品内作品は盛り込みづらいので全カットしている。そのせいで話の流れがスムーズになったが、ただ政治的に考えさせられるコントロヴァーシャルなポイントは減ったかもしれない。ジン・ジャンのパートについてはちょっとカットしすぎな気もした。

 

 ヴィジュアルはとても素晴らしく、空間や動きの計算がとても上手だ。セットは傾斜のついた床板だけがあるシンプルな舞台をフレキシブルに使い、屏風とか木とか家具を運び込んでいろいろな場所にするというものである。黒衣が花やら紅葉やらを持って舞台で植物役になったりするあたり、ちょっと歌舞伎などを思わせるところもある(三島は自分で台本を書くくらい歌舞伎に通暁していた)。大きい仕掛けとしては真ん中に実際に水が流れる滝があり、これがここぞというところでけっこう効果的に使われている。また、ストレートプレイの抽象的な演出にダンスを持ち込むのは目も当てられない結果になることも多いのだが、これは登場人物の心情や象徴などを表現するため、かなり考え抜かれた振付で役者を動かすというもので、大変うまくいっていると思った。とくに清顕と聡子のセックスと勲の切腹が交錯するところはなかなか踊りの使い方が面白いと思った。

 

 そしてたぶんこのプロダクションで大事なのは、一番重点を置いて作っている『春の雪』パートの主人公である松枝清顕(東出昌大)のキャラクター造形なのではないかと思う。最初、東出昌大が絶世の美青年で20歳そこそこの清顕役だと聞いて大丈夫なのかなと思ったのだが、結局大正解だった。東出昌大はあんなにハンサムなのに妙に存在感が微かだというか、生身の肉体を備えた人間として実在していないみたいな変な雰囲気を醸し出しているところがあると思うのだが、このプロダクションの清顕も、なんというか舞台に美しい空隙があるみたいな感じで、不可解だし気まぐれにも見える振る舞いにはちょっとイラつくところもあり、部厚い人間味みたいなものが無くて、まるで夢に出てくる影みたいだ。しかしながらその舞台にぽっかりあいた輝かしい穴みたいな稀薄な存在感のせいで、最後の「松枝清顕なんていう人、本当にいたんでしょうか?」というオチが非常にしっくりくる。あの清顕なら本当にいなかったのかもしれないし、人生なんていうのは夢で記憶もあてにならないのかもしれない。