クライマックスが大問題で頭を抱えた~タイプス『リア王』

 座・高円寺でタイプス『リア王』を見てきた。オールフィメールの上演である。

 

 オーソドックスな上演で、良いところはたくさんある。グロスターが崖から飛び降りようとするあたりのくだりなどは真に迫った描写とユーモアのバランスが良かったし、全体的に笑うところもたくさんあった。ただ、オールフィメールとしてはキャスティングと演出に圧倒的な問題があると思った。

 

 最初から、コーディーリアがずいぶん高身長だな…と思って見ていた。原作にはコーディーリアがかなり小さい女性であるらしい描写があるのだが、このプロダクションでは三姉妹の中で一番デカいくらいの身長だ。そうしたら、なんと最後の場面のリア王コーディーリアを腕に抱いて入ってくるという指定がある箇所で、このプロダクションのリア王は娘を担がずに出てくる。リアはコーディーリアの衣類を持ってくるだけだ。このコーディーリアを抱いて入ってくるというのは、リアが最後に残った力を振り絞って娘への愛を示し、体力を使い切って死んでしまうことを示すためのクライマックスなのだが、リア王役はふつう年をとった男優が演じるので、性別を問わず相当に負担のかかる場面だ。だからコーディーリアは小柄な女優が好まれるというのもあるし、衣装に仕掛けをするとか、裏方がこっそり手伝うとか、リアが入ってきた瞬間に周りの人物が駆け寄って助けるとか、いろいろな小細工が上演史上行われている。しかしながらこの上演ではそもそもコーディーリアを持ち上げて入ってくるのをやめてしまっている。これは視覚的インパクトの点で非常によろしくないし、やっぱり女優は力がないからリア王なんかできないとか言われてしまうことになりかねないので、オールフィメールとしては絶対にまずいと思う。なんで小細工を使ってでもコーディーリアを持ちあげるということをしなかったんだろう?そもそもなんでコーディーリアを小柄な女優に振らなかったんだろう?

 

 そして、コーディーリアを本人ではなく衣服にしたことで何か芸術的な効果があがっているかというと、全くあがっていないと思う。ここでリアが衣服を持って入ってくるのならば、衣服しかないのにまるでコーディーリアがそこにいるかのようにリアに話させることで、リアの狂気を示す必要があると思う。しかしながらこのプロダクションは、見たところ1623年のフォリオ版に近そうな小田島訳を使っているはずだがかなりカットしており、フォリオ版テクストよりは1608年のクォート版テクストに近くなっていて、リアが目の前のコーディーリアに語りかける台詞がずいぶんなくなっているので、狂気のすさまじさとかは全然感じられなくなっている。さらに最後にオールバニエドガーが言うことになっている締めの台詞もカットされていて、最後の場面のテキレジは相当ズタズタだ。

 

 他にもキャスティングや演出にはいろいろ問題があると思う。若い兄弟であるはずのエドガーとエドマンドをかなり老けた感じに作っているせいで、父親であるグロスターとの対比がわかりづらくなっているのは問題だ。エドマンドが老人の横暴に耐えかねて残虐な復讐を企むんだから、エドマンドはものすごく若くて生意気でないといけないし、エドガーも1年くらいしか違わない若い兄弟なんだから、この2人は若くてちゃきちゃきした感じに作らないといけないはずだ。それから、エドガーがオズワルドと戦うところで、原作ではオズワルドは舞台上で死ぬのだが、このプロダクションではなんだかわからないバカっぽい感じで舞台から出て行くのも良くないと思った。